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大伴 道足(おおとも の みちたり、生没年不詳)は、奈良時代の公卿。姓は宿禰。贈内大紫位・大伴馬来田の子〔『続日本紀』延暦元年2月3日条の大伴伯麻呂の薨伝による。〕〔『公卿補任』、「大伴系図」(『続群書類従』巻第182所収)などによれば大伴安麻呂の子とする。〕。子に伯麻呂がいる。官位は正四位下・参議。 == 経歴 == 大宝4年(704年)従六位下から四階の昇叙により従五位下に叙爵。以降元明朝から元正朝にかけて、讃岐守・弾正尹・民部大輔などを歴任。この間、和銅5年(712年)正五位下、養老4年(720年)正五位上、養老7年(723年)従四位下と昇進した。讃岐守在任時の和銅6年(713年)には、同国寒川郡の物部乱ら26人が庚午年籍以来良人であったところ、持統天皇4年(690年)の戸籍改定の際に誤って飼丁の籍とされたとして、良人に編入すべき旨を言上し許可されている。 神亀6年(729年)2月に発生した長屋王の変に際して、大宰大弐・多治比県守、左大弁・石川石足とともに臨時で参議に任ぜられ、同年正四位下・右大弁に叙任された。天平2年(730年)勅を受けて擢駿馬使として大宰府に下向するが、その際に大宰帥・大伴旅人の邸宅で催された歓迎の宴で葛井広成が詠んだ和歌が『万葉集』に採録されている〔『万葉集』巻6〕。天平3年(731年)7月に薨去していた大伴旅人に代わって、同年8月に諸司の主典以上の官人の推挙を受けて、大伴氏の代表として参議に任ぜられ公卿に列した。同年南海道鎮撫使。議政官として右大弁を兼任したが、天平7年(735年)阿倍帯麻呂らによる殺人事件について、遺族の訴えを審理せず放置したとして左中弁・高橋安麻呂らとともに断罪されるも、聖武天皇の詔により赦されている。 没年不詳だが、一説では天平13年(741年)没とする〔「大伴系図」(『続群書類従』巻第182所収)。また、『公卿補任』でも天平13年(741年)7月に紀飯麻呂が右大弁に任ぜられていることから、同年に薨去した可能性がある旨記されている。〕。最終官位は参議正四位下〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大伴道足」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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