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大伴 金村(おおとも の かなむら、生没年不詳)は、5世紀から6世紀にかけての豪族(大連)。大伴室屋の孫で、大伴談の子とされるが〔「伴氏系図」(『続群書類従』巻第182所収)〕、大伴室屋の子とする系図もある〔 『古屋家家譜』(『甲斐国一之宮浅間神社誌』資料編及び『各家系譜』所収)(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年 による)〕。子に大伴磐(いわ)・大伴狭手彦(さてひこ)・大伴咋(くい)がいたとされるが〔、子に磐・狭手彦・大伴糠手古・大伴阿被布古・大伴宇遅古とし、阿被布古の子に咋を置く系図もある〔。 == 経歴 == 仁賢天皇11年(498年)、仁賢天皇の崩御後に大臣平群真鳥・鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。武烈天皇8年(506年)武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。 『日本書紀』によると継体天皇6年(512年)に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県割譲要請があり、金村はこれを承認し、代わりに五経博士を渡来させた。継体天皇21年(527年)の磐井の乱の際には物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。しかし、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していった。 晩年は大伴氏の館のあった摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)に住み、そこで死去。住吉区にある帝塚山古墳は、大伴金村あるいはその子の墓とされている。ただし、古墳の築造年代は4世紀末から5世紀初頭であり年代が合わない。 奈良県葛城市には、金村を祀る金村神社がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大伴金村」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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