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大伴 駿河麻呂(おおとも の するがまろ、生年不詳 - 宝亀7年7月7日〔『続日本紀』宝亀7年7月7日条〕(776年7月26日)は、奈良時代の公卿。大納言・大伴御行の孫。父は不詳だが参議・兄麻呂と推定する文献もある〔御行の子と考えられる人物に、兄麻呂・古麻呂・三依・三中がいるが、古麻呂以下は従五位下への叙位時期が駿河麻呂(天平15年)より遅いため、父を兄麻呂とするのが妥当(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』)。また、『伴氏系図』(『続群書類従』巻第182 所収)では、父を大伴道足とする。〕。子に氏上がいる。官位は正四位上・参議、贈従三位。勲等は勲三等。 == 経歴 == 天平15年(743年)従五位下に叙せられる。天平18年(746年)越前守。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱においては、反乱に加わったとして弾劾を受け、死罪は免れるものの長く不遇を託った。 のち罪を赦されたらしく、神護景雲4年(770年)5月に従五位上・出雲守に叙任される。光仁朝に入ると急速に昇進し、宝亀元年(770年)10月同天皇の即位に伴い正五位下に、さらに肥後守として改元の祥瑞白亀を献上したことから正五位上と続けて昇叙され、翌宝亀2年(771年)に従四位下に叙せられている。宝亀3年(772年)には陸奥按察使に任ぜられるところを老いによる衰えを理由に一旦辞退するが、天皇の強い希望により任官を受け入れ正四位下に叙せられた。宝亀4年(773年)陸奥国鎮守将軍を兼ね、宝亀5年(774年)蝦夷征討の命令を受け、陸奥国遠山村(登米郡か)まで侵攻して大きな戦果を挙げた。宝亀6年(775年)9月参議に任ぜられて公卿に列し、同年11月には反乱を起こして桃生城へ攻め寄せた蝦夷を鎮圧した功労により、正四位上・勲三等に叙せられた。 宝亀7年(776年)7月7日卒去。官位は参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍。即日従三位の贈位を受けた〔『公卿補任』では宝亀7年3月に没し、同年4月3日に従三位を追贈とする。〕。 『万葉集』に和歌作品11首が採録されており〔『万葉集』3-400・402・407・409、4-646・648・653~655、8-1438・1660〕、その中にある坂上郎女との相聞歌に妹の坂上二嬢との婚約を暗示する節がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大伴駿河麻呂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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