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大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - 1944年12月9日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名小島 武夫(こじま たけお)、大伴 龍三(おおとも りゅうぞう、新漢字表記大伴 竜三)とも名乗った。 == 来歴・人物 == 1907年(明治40年)10月20日、佐賀県杵島郡(現在の同県武雄市)に生まれる。 旧制・福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)卒業後、帝国キネマ演芸に入社、古海卓二に助監督として師事する〔キネマ旬報社, p.82(竹中労).〕。 1927年(昭和2年)、20歳にして、奈良の市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所製作の市川右太衛門主演作『笑ふな金平 後篇』で監督としてデビュー〔、同作は同年9月15日に公開された。前篇にあたる『侠骨漢 笑ふな金平 前篇』の監督は押本七之助であったが、押本はすでにマキノ・プロダクション御室撮影所に移籍していた。間髪をおかず撮影、同年9月29日、10月7日に公開され、傑作と謳われた『狂血 前篇・後編』を含め、右太プロで年内に4本の監督作をものすが、年末に応召、戦地に赴く〔〔本庄, p.199.〕。兵役から明けて1929年(昭和4年)には2本、1931年(昭和6年)には1本、恩師の古海監督のためにオリジナル脚本を書いているが、監督作には5年のブランクが空くことになる。 1932年(昭和7年)、25歳のとき、監督として復帰した先は東活映画社であった。同社での金田繁との共同監督作、月形龍之介主演の『決戦荒神山』は、同年12月31日公開の宝塚キネマ配給の正月映画であった。翌1933年(昭和8年)1月5日、つまり前作の翌週公開の正月映画『乱刃筑波颪』から宝塚キネマで作品を8本発表したが、8月19日公開の仁科熊彦との共同監督作『風流やくざ節 前篇』(後篇は仁科のみクレジット)を最後に同社を去る。同年秋には大都映画に移籍、同年11月1日公開の『放浪旗本仁義』以降は量産の日々が始まる。1934年(昭和9年)より「竜三」名義となる。時期は不明であるが、脚本家の小沢不二夫(1912年 - 1966年)の妹・道子と結婚、小沢は義兄にあたり〔本庄, p.11.〕、小沢の妻で女優の市川弥生は義姉、小沢の長男である小澤公平、小沢の姉の子息である小説家・脚本家の本庄慧一郎(1932年 - )は義理の甥、小沢の長女である水沢有美は姪にあたる〔。 1941年(昭和16年)に働き盛りの33歳でふたたび応召〔〔、赴任先で病に倒れ、1944年(昭和19年)12月9日に死去〔〔渡邉, p.198.〕。満37歳没。2度の兵役により、正味わずか9年足らずの監督生活ではあったが、104本の作品を残す。大半が大都の剣戟映画であった。本庄慧一郎の指摘によれば、「『日本映画監督全集』には、大伴龍三は二度にわたって招集をうけたように記されているが、そのような事実はない」としている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大伴麟三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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