翻訳と辞書
Words near each other
・ 大内山
・ 大内山動物園
・ 大内山平吉
・ 大内山村
・ 大内山脇動物園
・ 大内山駅
・ 大内峠
・ 大内峠道路
・ 大内川
・ 大内平吉
大内延介
・ 大内弘
・ 大内弘世
・ 大内弘家
・ 大内弘幸
・ 大内弘成
・ 大内弘盛
・ 大内弘興
・ 大内弘茂
・ 大内弘貞


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

大内延介 : ミニ英和和英辞書
大内延介[おおうち のぶゆき]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うち]
 【名詞】 1. inside 
: [かい]
  1. (n,vs) shell 2. shellfish 3. being in between 4. mediation 5. concerning oneself with

大内延介 : ウィキペディア日本語版
大内延介[おおうち のぶゆき]

大内 延介(おおうち のぶゆき、1941年10月2日 - )は、将棋棋士。2010年、引退。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は86。東京都港区出身。中央大学卒業。
==棋歴==
小学4年生のとき、将棋道場で二枚落ちで3連敗し、それがきっかけで将棋にのめりこむ。小学6年生の頃には、将棋の駒の名産地として知られる山形県天童市にて、1ヶ月間、将棋修行をする〔以上、「将棋世界」(日本将棋連盟)2000年1月号付録から引用。〕。
1954年、土居市太郎名誉名人の最後の弟子として入門。1963年4月1日の四段昇段(プロ入り)は、米長邦雄と同期である。
1963年のプロデビュー直後、初参加の順位戦から2期連続昇級。
1967年、第8期王位戦にて大山康晴への挑戦権を得、タイトル戦初登場。六段の挑戦者は当時史上初で、七番勝負は1勝4敗で敗退した。
穴熊戦法を駆使し、1975年には第34期名人戦中原誠に挑戦するまでに至った。二人は対比的に、“中原は王道、大内は覇道”と表現された。この名人戦で大内は中原と互角に戦い、3勝3敗でフルセットとなる(このほか千日手も1局あった)。迎えた最終第7局は1日目の封じ手の時点で大内が大優勢となった。しかし、勝利目前でミス(手順前後)をして勝ちを逃し、持将棋に持ち込まれてしまった。これについては、後に大内自身が、「対局室(羽沢ガーデン)の近くにビアガーデンがあり、そこから聞こえる酔った人の話し声と将棋の読みとの‘葛藤’があり、後で指すべき手を先に指してしまった」と語っている〔2009年の第67期名人戦第6局の立会人を務めた際、1日目のテレビ中継(NHK衛星第2テレビジョン、2009年6月15日午前)で、大内の名人戦登場の映像が紹介された際、アナウンサーが、「名人位に手が届くとなると平常心を保てなくなるか」と質問したのに対して語ったものである。なお、語った後、微笑しながら「一生言うまいと思っていましたが、気が緩みましたね」との言葉を添えている。〕。そして指し直しの第8局で敗れ、名人を獲得することができなかった。
第1期棋王戦(1975年度)で、内藤國雄高島弘光との三者リーグを制し、初代棋王の座に就く。第1局(内藤-大内)はハワイで行われ、将棋の公式戦では初の海外対局となった。
第68期(2009年度)順位戦でC級2組からの降級が決定。60歳以上であるためフリークラスに編入できず、以降、最終対局(各棋戦で不戦敗が生じないところ)まで指したところで引退することが決まった。タイトル経験者のこうした形での引退は、同年の有吉道夫のケースとともに初である。そして、勝っても負けても引退日となる2010年4月20日竜王戦5組残留決定戦で石田和雄を破って6組に降級させ、自身は6組降級(の成績)の汚点を棋士人生に残すことなく、勝負師として最後の華を飾った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大内延介」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.