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大内 惟信(おおうち これのぶ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。清和源氏義光流平賀氏の一族で、大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。 == 生涯 == 元久2年(1205年)に叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長、検非違使に任じられ、南都神木入洛を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした。建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺された後、父惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。しかし、鎌倉幕府は源氏将軍を断絶させた北条氏主導となり、源氏門葉であった平賀(大内)氏は幕府の中枢から離れていく事になる。 承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽上皇方に付いて伊賀光季の襲撃に加わり、子息の惟忠と共に東海道大井戸渡の守りについて幕府軍と対峙した。敗北後、逃亡して10年近く潜伏を続け、法師として日吉八王子の庵室に潜んでいた所を探知され、寛喜2年(1230年)12月、武家からの申し入れによって比叡山の悪僧に捕らえられて引き渡された。捕縛の際、力は強いが刀は抜かなかったという。その後、惟信の協力者として仁和寺の僧や郎党3人が捕らえられた(『明月記』)。その後一命は許されて西国へ配流となり、ここに平賀義信以降、源氏一門として鎌倉幕府で重きをなした平賀(大内)氏は没落した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大内惟信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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