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大内 政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名。大内氏第14代当主。父は大内教弘、母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強大を誇った。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。 == 生涯 == === 出生と家督相続 === 文安3年(1446年)、大内教弘の子として生まれ、のち元服時に室町幕府第8代将軍・足利義政より偏諱を賜い、父・教弘からも1字を与えられて政弘と名乗る。 なお、康正3年(1457年)に父・教弘が幕府に無断で安芸武田氏を攻めた際に勘気を受けて、幕府によって当時亀童丸と呼ばれていた政弘が大内氏当主に立てられ、それが寛正4年(1463年)に教弘が赦免されるまで続いたとする研究がある〔和田秀作「大内武治及びその関連史料」『山口県文書館研究紀要』30号(2003年)及び藤井崇「教弘期大内氏の分国支配と[御家人制]」『歴史評論』700号、2008年。改題・改稿「教弘期の分国支配」藤井『室町期大名権力論』同成社、2013年。ただし、和田はこれによって教弘流の惣領としての立場が動揺したとするのに対し、藤井は実子(政弘)への当主交代を行っても実権は父親(教弘)が握っている以上実際の領国に与えた影響は小さいとする。〕。 寛正6年(1465年)、父・教弘の死により19歳で家督を相続し、周防・長門・豊前・筑前の守護も継承した〔歴史群像シリーズ特別編集 毛利戦記 復刻版(2010年・学習研究社)p16-17 大内概略〜義隆登場以前 文/光武敏郎〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大内政弘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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