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大内 照子(おおうち てるこ、1918年11月15日 - 没年不詳)は、日本の女優である〔''大内照子''、''jlogos.com'', エア、2012年12月4日閲覧。〕〔''大内照子''、日本映画データベース、2012年12月4日閲覧。〕〔''大内照子''、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月4日閲覧。〕。本名大内 幸香(おおうち ゆきこ)〔。 == 人物・来歴 == 1918年(大正7年)11月15日、愛媛県伊予郡砥部町大字原町に生まれる〔。4歳上の兄に俳優の大内弘(本名・大内一郎)がいる〔大内弘 、''jlogos.com'', エア、2012年12月4日閲覧。〕〔キネマ旬報社, p.94.〕。 1936年(昭和11年)3月、愛媛県立松山高等女学校(現在の愛媛県立松山南高等学校)を卒業すると同時に、兄の在籍するマキノ正博の新会社マキノトーキー製作所に入社する(第二期入社)〔〔〔〔マキノ、p.338-374.〕。同年4月29日に公開された根岸東一郎・マキノ正博共同監督による『加賀見山』に出演して、満17歳で映画界にデビューした〔〔〔加賀見山 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月4日閲覧。〕。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔や兄の大内弘ら大半の俳優は新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に移籍、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、照子と同期の水原洋一、田村邦男、團徳麿、志村喬、大倉千代子、大久保清子らは日活京都撮影所に移籍していくが〔、照子は、同社跡地に、甲陽映画から独立して今井理輔が設立した「今井映画製作所」に移籍した〔〔〔。同社での照子の出演記録は、児井英男(のちの映画プロデューサー児井英生)監督の『海の大将軍』以外は不明であるが〔、同社も翌1938年(昭和13年)春には解散した〔今井理輔 、日本映画データベース、2012年12月4日閲覧。〕。 1939年(昭和14年)春ごろまでに、大阪府南河内郡古市町白鳥園(現在の同府羽曳野市翠鳥園)の極東キネマに入社、同社が製作・配給するサイレント(解説版)の剣戟映画に出演する〔〔。同社での出演記録は、1940年(昭和15年)7月11日に公開された高田博文監督の『塙團右衛門』が最後であり〔〔、同社は翌年、大宝映画を経て東宝映画に統合されていく。東宝映画、あるいは他社での出演歴はない〔〔〔「大内照子」検索結果 、映画データベース、東宝、2012年12月4日閲覧。〕。時代は第二次世界大戦に突入し、その後の消息はわからない。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大内照子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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