翻訳と辞書
Words near each other
・ 大内美予子
・ 大内義一
・ 大内義一 (物理学者)
・ 大内義一 (英文学者)
・ 大内義尊
・ 大内義弘
・ 大内義房
・ 大内義教
・ 大内義昭
・ 大内義綱
大内義興
・ 大内義長
・ 大内義隆
・ 大内脩吉
・ 大内臓神経
・ 大内裏
・ 大内裏 (平安京)
・ 大内裕和
・ 大内記
・ 大内警察署


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

大内義興 : ミニ英和和英辞書
大内義興[おおうち よしおき]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うち]
 【名詞】 1. inside 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [こう]
 【名詞】 1. interest 2. entertainment 3. pleasure 

大内義興 : ウィキペディア日本語版
大内義興[おおうち よしおき]

大内 義興(おおうち よしおき)は室町時代後期から戦国時代にかけての周防山口)の戦国大名大内氏の第30代当主。
父は周防守護で大内氏の第29代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる〔『大乗院日記目録』文明8年12月20日条に「大内息新助今日京著畢」と大内政弘の息子の上洛の記事があるが、義興が誕生する以前の記事である。また、同日条に出てくる「新助」=「新介」の名乗りは、義興の幼名「亀童丸」もともに大内氏の嫡子に与えられる名乗りであり同氏の後継者が2人存在したことになってしまう。このため、義興には誕生前に死去あるいは廃嫡となった兄がいた可能性がある。また、大内高弘がその廃嫡された兄であった可能性も否定できない(藤井崇『室町期大名権力論』同成社、2013年、P307及び藤井『大内義興』戎光祥出版、2014年、P32-33)。〕。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第31代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)大内義長(第32代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。
== 生涯 ==

=== 家督相続と内訌 ===
文明9年(1477年)、大内氏の第29代当主・大内政弘の子として生まれる〔常楽寺文書「大内殿御先祖次第」。なお、父・政弘は応仁元年(1467年)以来、応仁の乱の西軍方として京都に出陣して文明9年末まで領国には帰っておらず、日付が正しければ義興は大内氏の本拠地である山口ではなく京都で生まれたことになる。〕。幼名亀童丸長享2年1月30日1488年3月13日)に京都にて元服し、将軍足利義尚から「義」の字を許されて「義興」の名を与えられた(『蔭涼軒日録』同日条〔)〔 藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.35〕。
明応元年(1492年)、父の命令で六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に参戦する〔 福尾猛市郎 著『人物叢書‐大内義隆』吉川弘文館、1989年、p.36〕。ところが、その最中の明応2年(1493年)に管領細川政元が将軍足利義材を幽閉する明応の政変が発生する。義興は兵を摂津国の兵庫に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年8月4日条)などが発生しており、細川政元らが大内政弘が足利義材を支援することを恐れて人質を取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さが本国の政弘の怒りを買ったと推測される〔 藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.36-43〕。だが、一方でこの出兵が京都生まれの義興と本国の被官との関係構築に大いに寄与する事になり、家督継承後の義興の支配に資することになった〔 藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.49〕。
明応3年(1494年)秋、父が病気により隠居したため、家督を譲られて大内氏の第30代当主となり〔 福尾猛市郎 著『人物叢書‐大内義隆』吉川弘文館、1989年、p.38〕、
暫くの間、義興は父である政弘の後見を受けるが、明応4年(1495年)9月18日に父が死去すると〔、名実ともに大内氏の当主となる。
ところが、義興への家督継承の前後から大内家中で不穏な事件が相次いで発生する。まず、先の畿内出兵中に義興に従って出陣しながら、突如出奔して出家してしまった陶武護が帰国した上、明応4年2月に代わりに家督を継いだ弟の陶興明を殺害した上で、長門守護代の内藤弘矩が弟の尊光を擁立しようとしたと讒言して、それを信じた義興が弘矩と子の弘和を誅殺してしまった。ただし、後に内藤父子の冤罪を知り、讒言した武護を誅殺し、弘矩の娘を正室に迎えて弘矩の弟である内藤弘春に内藤氏を再興させ、同じく陶氏も末弟の陶興房に継がせて再興させた。弟・大護院尊光の擁立に関しては明応8年(1499年)に現実のものとなり、重臣の杉武明が反乱を起こしたが、義興はこれを鎮圧して武明を自殺させ、尊光は大友氏を頼って豊後に亡命した〔。ところが、内藤弘矩・陶武護・杉武明の誅殺については通説と異なる話(例えば、内藤弘矩は陶武護とともに謀反を起こそうとして先代当主である政弘に殺された説(『晴興宿禰記』明応4年3月21日条)の存在や、杉武明が直前まで義興の信任を受けていたこと)が伝えられ、大内氏内部により複雑な政治的対立があったとも考えられている。そして、父・大内政弘の存命中に陶弘護(武護・興明・興房兄弟の父)・内藤弘矩が亡くなり、有力重臣である陶氏・内藤氏を一時没落させたことが、後を受けた義興の地位を安定させることにもつながった〔 藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.43-47・51-53・60-63〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大内義興」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.