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大内 義長(おおうち よしなが)は、周防・長門両国の戦国大名。周防大内氏の第32代で事実上最後の当主。 == 生涯 == === 出生・大内家の猶子 === 豊後大友氏の20代当主・大友義鑑の次男として生まれる。天文12年(1543年)に尼子晴久との戦いで大内軍が敗走する際に義隆の養嗣子である晴持が死去したため、継嗣を失った義隆は天文12年(1544年)に姉婿である義鑑の次男である八郎晴英を猶子とした〔 福尾猛市郎 著『人物叢書‐大内義隆』吉川弘文館、1989年、p.67〕〔 福尾猛市郎 著『人物叢書‐大内義隆』吉川弘文館、1989年、p.68〕。室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ、晴英(はるひで)と名乗る。 晴英はあくまで養嗣子ではなく猶子であり、これは義隆に将来実子が生まれなかった場合に家督相続人とする含みを持っていたが、大友氏ではこれを歓迎した。しかし天文14年(1545年)、義隆に実子の義尊が誕生したため、猶子関係を解消され、帰国した〔。この時の義隆の実子誕生と晴英の縁組解消は九州諸大名にかなりの衝撃を与えたとされている〔『相良家文書』では「官務(おさい)腹へ御曹子誕生候間、豊州より御養子の儀は相違たるべくと存じ候。恐れながら其方御心中察し存じ候」とある。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大内義長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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