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山口慎一(やまぐち しんいち、1907年〈明治40年〉4月8日 - 1980年〈昭和55年〉2月10日)は、満州国で活動した日本人の翻訳家、文芸評論家。主な筆名は大内隆雄(おおうち たかお)。その他の筆名には矢間恒耀、徐晃陽、大藤巍がある。 == 略歴== 1925年、長春商業学校を卒業すると、20人に1人という満鉄派遣留学生試験に首席で合格し上海の東亜同文書院に入学、4年間学業は常に首位だったという。 東亜同文書院の教育の特徴であった学生による中国調査旅行では、森本辰治、日高清磨瑳、中崎一之とともに「華南、滇越南沿線経済調査班」として1928年5月29日から7月25日にかけて上海、汕頭、廈門、香港、広東、仏印、雲南、台湾を巡っている。この調査旅行途次、山口が応募した満鉄社歌が当選し、これが満鉄社歌として正式に採用された。 また在学中は田漢、郁達夫と交友をもっており、田漢主宰南国芸術学院では教授をつとめ、郁達夫の『鶏肋集』では「公開状答日本山口君」としてその名が記されている。さらには魯迅とも面識があったという。 1929年、東亜同文書院卒業後に満鉄に入社、情報課、調査課、弘報課、仝経済調査会に勤務し『満鉄調査月報』、『満洲評論』編集にたずさわった。1930年には東京で郭沫若と会っている。1932年、『満洲評論』編集長に就き、橘樸とともに『改造』誌上に「最新満洲辞典」を編むが年末には左翼として検挙され、翌1933年満鉄を退社し帰国している。東京での一年の生活を経て再び渡満すると、満鉄時代は政治経済方面が中心であった執筆を文芸方面にうつして活動を再開し、堪能な中国語をいかして古丁や山丁といった満州国で活動する中国人作家の文学作品を盛んに日本語に翻訳し紹介した。 1945年に満州国が崩壊すると翌1946年、福岡柳川に引き揚げた。のちに宮崎延岡へうつり延岡市立図書館司書、緑が丘高校(現聖心ウルスラ学園高等学校)、緑ヶ丘学園短大(現聖心ウルスラ学園短期大学)講師などをした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口慎一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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