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大内青巒 : ミニ英和和英辞書
大内青巒[おおうち せいらん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うち]
 【名詞】 1. inside 
: [あお]
 (n) 1. blue 2. green 3. green light

大内青巒 : ウィキペディア日本語版
大内青巒[おおうち せいらん]
大内 青巒(おおうち せいらん、弘化2年4月17日1845年5月22日)- 大正7年(1918年12月16日)は、明治期から大正期における仏教学者・思想家。父は仙台藩士大内権右衛門。名は退(まかる)。字は巻之。別号を藹々居士。陸奥国(後の陸前国仙台出身〔「宮城県姓氏家系大辞典」角川書店〕。
== 経歴 ==
はじめ宮城郡東宮浜(現在の七ヶ浜町)〔、後に常陸国水戸出家して泥牛と号し、その後江戸へ出て仏教の研究を志した。明治維新後は、大洲鉄然の推挙により浄土真宗本願寺派本山本願寺西本願寺)第21世宗主大谷光尊の侍講をつとめた。1874年(明治7年)雑誌『報四叢談』、1875年(明治8年)新聞『明教新報』を発刊し、仏教における啓蒙思想家として活動した。1889年(明治22年)島地黙雷井上円了らとともに天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成した。曹洞宗の『修証義』を起草した。1914年(大正3年)東洋大学の学長に就任した。
1918年(大正7年)、脳溢血のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)6頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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