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大原 重徳(おおはら しげとみ)は、江戸時代後期から明治時代の公家。 == 生涯 == 権中納言・大原重尹の五男として京に生まれる。文化6年(1809年)に光格天皇の侍童となり、文化12年(1815年)に宮中に昇り、孝明天皇に重用される。 安政5年(1858年)には日米修好通商条約の調印のための勅許を求めて老中・堀田正睦が上洛すると、岩倉具視らと反対して謹慎させられる。文久2年(1862年)、薩摩藩の島津久光が藩兵を率いて献策のために上洛すると、赦免された重徳は岩倉の推薦で勅使として薩摩藩兵に警備されて江戸へ赴いた。江戸では、薩摩の軍事的圧力を背景に攘夷の決行や、一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命することと両名の幕政参加を老中の板倉勝静や脇坂安宅らに迫り、これを飲ませた(文久の改革)。 京都に戻ると国事御用掛などを務める。翌年には同じく朝廷に献策していた長州藩の薩摩藩を批判する内容の勅書を改竄すると罪を問われて辞職する。元治元年(1864年)に赦免され、慶応2年(1866年)には親幕派の中川宮や二条斉敬らの追放を試みるが失敗して幽門させられる。 後に許されて、明治元年(1868年)には従二位・権中納言に進み、参与・議定など新政府の役職を務め、明治12年(1879年)に薨去、享年79。同年4月3日、贈正二位。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大原重徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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