翻訳と辞書
Words near each other
・ 大友
・ 大友さゆり
・ 大友みなみ
・ 大友みほ
・ 大友よしやす
・ 大友よふ
・ 大友ジュン
・ 大友ヨシヤス
・ 大友一明
・ 大友一雄
大友亀太郎
・ 大友伸
・ 大友信一
・ 大友克洋
・ 大友克洋の漫画作品一覧
・ 大友克洋傑作集
・ 大友出版
・ 大友出版印刷
・ 大友勝利
・ 大友勝将


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

大友亀太郎 : ミニ英和和英辞書
大友亀太郎[おおども かめたろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 
: [かめ]
 【名詞】 1. tortoise 2. turtle 

大友亀太郎 : ウィキペディア日本語版
大友亀太郎[おおども かめたろう]

大友 亀太郎(おおども かめたろう〔「ふりっぱー札幌北東版9.1月号 」地域新聞ふりっぱー2013年9月1日号5頁〕、天保5年4月27日1834年6月4日) - 明治30年(1897年12月14日)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけ、北海道の開拓に貢献した相模国(現在の神奈川県)出身の幕臣
二宮尊徳の門下生の一人としても知られ、札幌市の中心部に現在の創成川のもととなる、「大友堀」を掘るなど、用水路や橋梁をはじめとする土地の開発に尽力した。札幌村の土台を作り上げたその業績から、「開拓の祖」と称されることがある。現在札幌市内には大友亀太郎像が設置され、札幌市時計台には生前の写真が展示されている(隻眼であったことが見て取れる)。また、大友公園や資料を収蔵した記念館など功績を称える施設が残されている。
== 来歴 ==

=== 小田原から蝦夷地へ ===
亀太郎は1834年(天保5年)、相模国足柄下郡(現在の神奈川県小田原市)に生まれた。農家を営んでいた飯倉吉衛門の長男としてこの世に生を受けており、大友の姓を名乗るようになったのは24歳の時である。当時は天保の大飢饉の影響もあり、幼い頃から貧しい環境の中勉学に勤しみ、算術を得意とした。22歳の時、大飢饉により衰退していた村を救い、復興を行った功績で知られていた二宮尊徳の門下生となる。そこで当時報徳仕法と呼ばれた農村復興政策を学んだ。1858年江戸幕府より領土を保全する開拓政策に則って、後の渡島国に渡った。
その後、箱館奉行所より「箱館在木古内村開墾場取扱」という役職に任命された。ここで後の渡島国上磯郡および亀田郡(現在の木古内町七飯町にあたる地域)の開墾に従事し、およそ100ヘクタールに上る田畑の土地開発と48戸の農家の入植を8年間かけて成し遂げた。1866年に箱館奉行所へ石狩原野の開拓など蝦夷地開墾についてまとめた計画書を提出。これらの実績が認められ「蝦夷地開拓掛」に任命された亀太郎は、1866年4月に同行者を連れて後の石狩国札幌郡(現在の札幌市東区)へと渡った。
当時まだ原生林で鬱蒼としていた場所へ移った亀太郎は、フシコサッポロ川(現・伏古川)の上流周辺地域を、官による援助や保護のもとに農民を入植させた農場を指す「御手作場(おてさくば)」として定め、道路や橋などのインフラストラクチャーを建設する工事に着手した。当時最新鋭の技術を駆使して整備が行われたこの工事の中には、およそ4キロメートルに渡る用排水路の建設計画が含まれていた。これが、後に創成川の土台となる「大友堀」の前身である。亀太郎は現在の石狩陸橋の北東から当時の札幌村役場の裏側へ水路を造り、伏古川まで通じるよう指導した。周囲から「百万両の大工事」とも呼ばれたこの工事に投入された資本には、亀太郎が神奈川県で二宮尊徳に学んだ報徳仕法が取り入れられており、北海道における産業の育成も目的の一つであった。また、未開拓の土地に用排水路が設けられたことで、札幌における街づくりの起点を作った。現在もこの大友堀は、創成川の一部分として残されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大友亀太郎」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.