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大友宗麟 : ミニ英和和英辞書
大友宗麟[りん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 

大友宗麟 ( リダイレクト:大友義鎮 ) : ウィキペディア日本語版
大友義鎮[おおともよししげ]

大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名キリシタン大名豊後国大友氏21代当主。宗麟法号で知られている。
大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。
父は20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、周防国大内氏の家督を継いだ大内義長(晴英)と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、塩市丸親貞など〔親貞に関しては甥ともいわれる〕。子に義統(吉統)、親家親盛など。
海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交〔宗麟は今山・耳川の戦いで敗北し、戦略家としては二流と見られている。しかし政略においては、毛利元就ですら手玉に取るほどの手腕を見せている。既に有名無実となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出して守護職・九州探題職を得、九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年(1581年)には当時の天下人・織田信長と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に義久と和睦するなど外交手腕には特に秀でていた。〕〔発給文書が非常に多い人物としても知られる。現存する書状だけでも1000通を越えており、家臣団の統率や中央政権との繋がり、果ては諸外国との通信など義鎮が非常に外交に長けた人物であったことを裏づけている。〕により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。
当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国に版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。
== 生涯 ==

=== 家督相続 ===
享禄3年(1530年)1月3日、大友家20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれる。傅役は重臣・入田親誠が務めた。
父義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、傅役の入田親誠と共に義鎮の廃嫡を企んだ。天文19年(1550年)2月に義鎮を強制的に湯治に行かせている間に義鎮派の粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、2月10日に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して2月12日に死去するという政変(二階崩れの変)が起こる。そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、21代当主となった。同時に入田ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大友義鎮」の詳細全文を読む




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