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大友氏遺跡(おおともしいせき)は、大分県大分市顕徳町一帯にある大友氏館(大友館)跡を中心とする中世の遺跡。2001年8月13日に「大友氏館跡」(おおともしやかたあと)として国の史跡に指定された後、2005年に旧万寿寺跡地区が追加され、名称が「大友氏遺跡」に改められた。 == 概要 == 中世に豊後国守護となった大友氏の大友氏泰は、現在の大分市市街地の東部、当時大分川の河口であった付近(現在の大分市顕徳町)に館を構え、この館を中心とする大友氏の城下町は府内と呼ばれた。中世の府内は東西約0.7キロメートル、南北約2.2キロメートルに及び、その中心となる大友氏館は一辺約200メートルの四辺形で、典型的な守護館であったと推定されている。 最盛期にはほぼ九州一円を支配した大友宗麟はキリスト教を保護し、明との貿易や南蛮貿易を行った。戦国時代の府内は、大友氏の城下町として、また、外国との貿易港として栄え、1557年には日本で初めての西洋式の病院が開設され、1580年にはコレジオ(神学院)が設置されるなど、南蛮文化が花開いた。しかし、フロイスの『日本史』によれば、府内は1586年(天正14年)の島津家久の侵攻の際に焼き討ちに遭い、壊滅したとされる。 かつては、大友氏の居館は本遺跡の南側の上野丘陵に位置する上原館(うえのはるやかた)であったと考えられてきたが、1990年代後半から行われている発掘調査によって、その北側の平地に位置する大友氏館の存在が明らかになった。この発掘調査では、15世紀から16世紀にかけての庭園遺構や整地層、掘立柱建物跡等が発見され、大型の建物の存在が推定されている。また、周囲からは明との貿易や南蛮貿易によってもたらされた華南や東南アジアの多数の陶磁器や、キリシタンの遺物であるコンタツ(ロザリオ)やメダイ(メダル)が出土している。出土した陶磁器の多くには、炎熱の痕が認められ、大友氏館周辺が焼き払われたことを物語っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大友氏遺跡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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