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大友 義右(おおとも よしすけ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。豊後国の大友氏の17代当主。 == 生涯 == 文明(1484年)、父大友政親から家督を譲られ当主となったが、大聖院宗心(13代当主大友親綱の六男)が親豊(義右)と父政親との離間を図り盛んに暗躍していたこともあり、父と対立するようになる。父との対立後、大内氏による大友家干渉もあり、母方の従弟大内義興の下へ出奔する。文明19年/長享元年(1487年)には一時的に父と和解し帰国したが、長享3年/延徳元年(1489年)に叔父日田親胤が肥後国で謀反を起こすと、同じく叔父親治の尽力のより鎮圧したが、宗心が親胤の謀反は政親の差し金と讒言し、これを親豊が信じたため対立が再燃する。 明応2年(1493年)、将軍職をめぐる足利義材・義澄 の対立においては大内義興に従ったようで、親豊は進んで義材に臣従することを申し出、義材の一字から材親、ついで義右と改名する。この後、父子の対立は激化してゆく。同3年(1494年)、政親に加担した筑後国詰郡代の田原親宗(田原親述の父)が府内に侵攻するが、義右は親宗を破り敗走させている。 治世が不安定な中、義右は明応5年4月頃から病を得、翌5月死去。大智寺に葬られたと伝えられているが墓は現存しない。病死と思われるが「対立していた父政親に毒殺された」という噂が流れたことが近衛政家の日記に残っている。 家督は父が再度継いだ後に叔父親治が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大友義右」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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