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菊池 義武(きくち よしたけ)は、戦国時代の武将。肥後国の名族菊池氏の最後(第26代)の当主。大友氏の出身で、大友重治とも言う。菊池氏一門の木野親則を曽祖父に持っており、菊池氏の血を引く人物でもある。 == 生涯 == 豊後国の戦国大名大友義長の次男〔として生まれた。その頃、隣国である肥後の菊池氏では家督を巡って内紛を続けていた。大友義長は最初は当主である菊池政隆を支持する姿勢を見せていたが、裏で菊池氏の家督を狙う阿蘇氏出身の武経を支援、やがて公然と筑後国・肥後国に侵攻して政隆を滅ぼしてしまった。ところが、更にその裏では武経を追い落として菊法師丸(後の義武)を菊池氏の当主にして同氏を乗っ取る工作を進めており、永正7年(1510年)には相良氏に武経排除への協力を求めている〔木村忠夫「大友氏の豊後支配」(初出:『熊本史学』42号(1973年)/所収:八木直樹 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻 豊後大友氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-122-6)〕。 永正8年(1511年)に菊池武経は家中の権力闘争に嫌気が差し、矢部に逃亡。永正10年(1513年)、武経は阿蘇氏の家督を弟の惟豊から奪還した。一方、大友義長は菊法師丸を菊池氏の後継者にするように菊池氏の重臣や傘下の国人に公然と働きかけ、菊法師丸に代わって所領の安堵を約束し始めた。だが、義長は永正15年(1518年)に病死してしまう〔。 大友氏当主は義長の嫡男で菊法師丸の兄である大友義鑑が継いだが、義鑑も肥後に勢力を拡大するために肥後に多大な影響力を持つ菊池氏の乗っ取りを目論み、武経の跡を詫摩氏出身の武包に継がせ、弟・重治の成長後に菊池氏の家督を継がせる密約を結んだ。 永正17年(1520年)に武包から家督を譲られて当主となった。重治は享禄4年3月9日に従四位下左兵衛佐に任じられ(『歴名土代』)、天文3年(1534年)までに義国を経て義武と名を改めた。この間、義武は兄・義鑑の方針に従って城氏・赤星氏・隈部氏と言った菊池氏庶流の重臣を老中(家老)から外して大友氏から連れてきた重臣と鹿子木氏や田島氏などの非菊池氏系の国人から老中を選んでいる〔。 だが、義武は天文3年(1534年)〔に大内義隆や相良氏と同盟を結んで兄に反抗し独立する。兄と不仲だったのが原因なのか、それとも自身の野心のためか、滅び行く菊池氏再興を願った為か、明確な理由は不明であるが、義武は大友氏当主に未練があり、筑後国領有という領土的野心もあったことが原因だと思われる。一方、義鑑からすれば、肥後を自分のものとするための道具である筈なのにそれが自らの意思で動き出すことは容認できない事態であった。 義鑑はかつて大友氏から義武の老中に派遣されていたことのある山下長就をはじめ、吉岡長増や田北親員らを派遣して筑後から肥後に向けて進軍させた。だが、室町幕府の仲裁によって大友義鑑と大内義隆が和平を結ぶことになると、支援を失った義武の敗北は決定的になった〔。義武は、肥前国の高来に亡命し、結局姻戚の相良氏を頼って落ち延びた〔。天文9年(1540年)に相良氏や宇土氏ら肥後南部衆の支援を得て木辺で大友方の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北した〔。一方、大友義鑑は肥後の直接統治を決意し、天文12年(1543年)には幕府に働きかけて肥後守護職を獲得した。 天文19年(1550年)に義鑑が二階崩れの変で横死すると、鹿子木氏や田島氏の支援を得て再び隈本城を奪還した〔。さらに、二階崩れの変をきっかけに豊後国内は内乱に陥ると予測して相良氏・名和氏・三池氏・溝口氏ら肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後全土の制圧を目指した〔〔。しかし甥の大友義鎮(後の宗麟)は直ちに国内の混乱を鎮圧すると、義武を一族から義絶する旨を表明して大軍を派遣、隈本城は落城して島原に落ち延びた〔〔。義鎮は義武討伐に協力した阿蘇氏との関係を強化し、これまで排除の対象であった城氏・赤星氏・隈部氏を取り立てることで肥後支配の安定を確立させることになる〔。 相良氏当主の相良晴広は、薩摩国の島津忠良に、義武と義鎮の和睦周旋を依頼するなど努めたものの講和は成らなかった。また、義武は天文23年(1554年)に剃髪して日向国か薩摩に亡命しようとするも果たせなかった〔。同年11月、義鎮の和平を口実にした帰国の誘いに乗り豊後へ向かうが、その途上直入郡木原で義鎮の家臣立花道雪とその配下安東家忠、小野信幸の軍勢に包囲され、自害を余儀無くされた〔。享年50〔。義武の死により、肥後の名門菊池氏は名実共に滅亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菊池義武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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