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坊ノ岬沖海戦(ぼうのみさきおきかいせん)は、1945年4月7日に沖縄へ海上特攻隊として向かった戦艦大和と護衛艦艇をアメリカ軍の空母艦載機との間で発生した戦闘。日本海軍が発動した天一号作戦の一環として第一遊撃部隊(第二艦隊のうち、戦艦大和と軽巡洋艦1隻・駆逐艦8隻からなる)は沖縄方面に出撃、アメリカ海軍第58任務部隊の空母艦載機がそれを迎撃した。日本海軍による最後の大型水上艦による攻撃であり、日本の艦隊は作戦前に撃沈された。大和はこの海戦で主砲を一発も撃つことはなかった〔#戦艦大和最後の乗組員の遺言79-80頁〕。 == 経過 == === 作戦の提案 === 太平洋戦争末期の1945年春、連合艦隊はすでに主力艦艇の多くを喪失していた。戦艦大和以下、生き残った主力艦艇や空母を中心とした新造艦艇の多くは燃料不足のため行動することができず、呉軍港などに繋がれていた〔#大和と日本人204-205頁〕。海龍、震洋といった特攻兵器の生産が優先され、大型軍艦の修理は後回しにされた〔#海の武将148頁、#秋元記録234頁〕。この方針に対し伊藤整一海軍中将は戦艦の修理を要請して井上成美海軍次官と対立した〔#大和と武蔵246頁〕。結果的に伊藤中将の要望が通り大和と榛名は呉工廠で、戦艦長門は横須賀で修理することが決定した〔#秋元記録234頁〕。その後、軍令部は燃料がなくなった戦艦を浮砲台として軍港に繋ぐ予定だったが、連合艦隊は1945年2月5日、第二艦隊を特攻に使用したい意向を明らかにした。そこで大和と矢矧の第二艦隊を残すことにした〔#原/吉田満13頁「作戦準備 特攻作戦策定責任の所在 軍令部作戦課野村実大尉の証言」〕。 以前から連合艦隊司令部では、連合艦隊首席参謀神重徳大佐が海上特攻の実施を主張していた。神参謀は、つねづね局地戦に大型艦をうまく使えるとの信念をもち、沖縄上陸戦の攻防にも参加させるべきと意見を抱いていた。サイパンの戦いでも、戦艦の山城を突入、座礁させて砲台とする作戦を具申したこともあった(そのときは中沢佑軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下された〔『海軍中将 中澤佑』142頁〕)。 連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将はそれをなだめていたが、神は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされていたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神が計画したものであった。神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」ということを強調していた。神は参謀長を通さずに連合艦隊長官豊田副武大将に直接決裁をもらってから「参謀長、意見はどうですか?」と話したので、草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。連合艦隊長官豊田副武大将は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。連合艦隊参謀淵田美津雄大佐も「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。〔戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p273-275〕。 当時、連合艦隊は神奈川県横浜市の日吉キャンパスにあった。草鹿龍之介連合艦隊参謀長は沖縄戦指導のため九州に出張中であった〔#大和と日本人208頁〕。そこへ神重徳大佐が草鹿宛に電話をかけ、応対に出た作戦参謀三上作夫中佐に対し、第一遊撃部隊による沖縄突入作戦決定を伝えた〔#原真相135-136頁、#大和と日本人208頁〕。神大佐は第二艦隊参謀として大和に乗艦することを希望したが、高田利種参謀副長は却下した〔#原真相137頁〕。神大佐が作戦参謀の三上作夫中佐に語ったこの作戦決定の理由は、以下のとおり。3月29日に昭和天皇に対し及川古志郎軍令部総長が沖縄方面のアメリカ軍に対し特攻作戦を行うことを奏上した。これに対し昭和天皇は、「総攻撃は航空部隊だけか。海軍にはもう艦がないのか。海上部隊はないのか」と(三上中佐によれば一般的な)質問を行い、それに対して「海軍の全力を投じて作戦を行う」と及川軍令部総長が答えたことが決定の理由だという。なお、三上中佐によれば天皇の「お言葉」は参謀総長への直言か、神大佐が自分で付け加えた言葉かも定かでないという〔#原真相136頁〕。 神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している〔戦史叢書17沖縄方面海軍作戦626頁〕。神の提案を軍令部総長及川古志郎大将は黙って聞いていたが、軍令部次長小沢治三郎中将は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という〔戦史叢書17沖縄方面海軍作戦626頁、戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期273頁〕。 神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は「大和」の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得した〔戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 274-275頁〕。 この作戦は、大和以下の艦隊を沖縄本島に突入させて艦を座礁させたうえで、固定砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついた後は乗員が陸戦隊として敵部隊へ突撃をかけるという生還を期さない特攻作戦であった〔#スパー運命113-114頁〕。これは連合艦隊長官豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名された〔奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ78頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坊ノ岬沖海戦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Operation Ten-Go 」があります。 スポンサード リンク
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