|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 大和 : [やまと] 【名詞】 1. ancient Japan ・ 和 : [わ] 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 城 : [しろ] 【名詞】 1. castle
大和田城(おおわだじょう)は、大阪市西淀川区大和田4丁目から5丁目付近にあった日本の城(平城)であるが、正確な位置や城郭、築城や廃城などの歴史については不明な点が多い。もともと戦国時代に砦があった場所に、石山合戦の時に織田信長の命に本格的な城郭として築城かれたのではないかと考えられている。 == 沿革 == 大和田城の正確な築城時期はよく解っていないが、『天文日記』によると天文5年(1536年)に中嶋五ヶ所の衆(大和田、野田、御幣島、海老江、三番)が証如に対して赦免願いを出したことが記載されている(この時の状況は天文の錯乱、飯盛城の戦い、山科本願寺の戦い等を参照)。証如と細川晴元との間には前年の天文4年(1535年)に講和が成立していたが、天文5年に講和中であるにもかかわらず、摂津にいた細川軍を攻め敗走させてしまった。証如はこの件を黙認したが、晴元の部将木沢長政は激怒し、中嶋に攻め込み800名が戦死した。『大和田城考』によると「この時に、大和田にも砦があったのでしょう」と解説している。 更に砦として明確に記載されているのが天正3年(1575年)の石山合戦の時で、石山本願寺の支城として大和田に砦を築き、荒木村重軍が駐屯していた神崎や渡辺へ攻め込み一旦敗走させたが、逆に荒木軍は本願寺軍を十三の渡しにおびき出してこれを破り、大和田や天満の砦を落していった。翌天正4年(1576年)、織田信長は村重に命じ、尼崎城(大物城)、花隈城、能勢城、三田城、多田城、茨木城、高槻城、有岡城、そして大和田城の改修や築城をさせ石山本願寺の牽制の城とした。この時城主となったのが村重の家臣安部仁右衛門であった。この時の様子を『陰徳太平記』によると、 とあり、まずは石山本願寺が築き、落城後織田方が再興したことがうかがい知れる記載となっている。 天正6年(1578年)に村重が信長への謀反に及ぶと(有岡城の戦い)、安部仁右衛門は芝山源内と談合し織田軍につくこととした。しかし、安部仁右衛門の父と祖父が荒木軍につき、『信長公記』によると天守に立て篭もったとの記載がある。これにより大和田城には天守があったと考えられている。仁右衛門は一計を案じ、信長の了承の下で自分も荒木軍につくと父と祖父を安心させ、その後拘束し安土城へ送ったとされている。大和田城はその後本来の目的である毛利水軍と石山本願寺軍の補給路を断つ重要な拠点となり、翌天正7年(1579年)に大和田城の攻城戦が繰り広げられたが、この年大地震がおこり攻城軍は壊滅し逃走した。 大和田城の廃城の時期は明確ではないが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で、徳川軍の池田利隆隊が大和田周辺を火攻めしたが、安部仁右衛門が郷民を集め反撃し消火活動を行った。池田利隆隊を破った仁右衛門隊であったが、その後救援に駆け付けた池田忠継隊に攻められ敗退した。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも大和田周辺は池田利隆隊に攻め込まれ敗退したようである。『大和田城考』によると「推測ですが、この大坂の陣まで大和田城はあったのではないでしょうか」としている。 また、大和田城の石碑が大阪市立大和田小学校の校庭に設置されている。この石碑は現在地より400m西北西に建っていたが、市営住宅建設のため現在の地に移設された。この石碑の裏には、 と記載されている。恩地天舟とは当時の大和田小学校の校長であった。この碑文ついても『大和田城考』によると「出典は不明ですが、これは誤りではないかと思われます」としている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大和田城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|