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大坪 砂男(おおつぼ すなお、1904年2月1日 - 1965年1月12日)は、日本の探偵小説作家。本名和田六郎。筆名はE・T・A・ホフマンの「砂男」に由来する。1951年に大坪 沙男と改名した〔探偵作家クラブ会報1951年7月号所載「改名由来の記」〕。 江戸川乱歩が「戦後派五人男」と呼んだ探偵作家5人のうちの1人。作品はすべて短篇である。 == 来歴 == 日本における鉱物学の先駆者である和田維四郎(東京帝国大学教授、八幡製鉄所長官、貴族院議員)の三男(姉妹を含めて六番目の子)として東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷薬王寺町に生まれる。東京府立第四中学校から東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)を卒業する。このときの同級生に映画評論家の岩崎昶がいた。 同校を卒業後、たまたま知り合った谷崎潤一郎が兵庫県武庫郡本山村(現在の神戸市東灘区岡本)に居住していたため、そこを訪ねて住み込みの書生となる。このとき谷崎夫人(のち佐藤春夫夫人。心理学者佐藤方哉の母)千代と密通〔谷崎終平「兄・潤一郎と千代夫人のこと」(『文學界』1988年5月号)〕〔瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに』(中央公論新社、1999年)〕。『蓼喰ふ虫』の阿曾のモデルとなる〔小谷野敦『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』pp.185-187(中央公論新社、2006年)〕。小谷野敦は「千代が和田の子を妊娠していたのを(谷崎が - 引用者註) 中絶させたのではないか」と推測している〔『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』p.187(中央公論新社、2006年)〕。 その後、陶工を志したり、株に手を出したりした後、警視庁の吏員として鑑識課に勤務し、8年間在職する。1932年には玉ノ井バラバラ事件を担当した。このとき上司の妻と恋仲になり、そのことが原因で退職したと伝えられる〔山村正夫『推理文壇戦後史』p.218(双葉社、1973年)〕。のち画商に転ずるも、不注意で贋作を販売した責任を取って廃業し、長野県南佐久郡野沢町(現在の佐久市)に疎開、ここで終戦を迎える。 戦後の預金封鎖で一般の生活費は月500円と決められていた時期、自由業者の場合は別に500円が追加されることを知る。美術商時代の知人の佐藤春夫が佐久に疎開していた縁で佐藤に頼んで弟子の証明を受ける。これ以後、佐藤に師事。 一人の偏執狂が些細な理由から殺人を行うまでを、飛躍に富んだ文章で描いた『天狗』を佐藤の推薦で『宝石』誌に発表。これが代表作となる。香山滋、島田一男、高木彬光、山田風太郎と共に、江戸川乱歩から戦後派五人男と呼ばれた。1950年、『私刑(リンチ)』他で探偵作家クラブ賞(現在の日本推理作家協会賞)受賞。日本探偵作家クラブの運営資金を私費する醜聞を起こし、また寡作ゆえに貧困に苦しみ、柴田錬三郎のアイデアマンに身をやつした。1965年、肝硬変と胃癌で死去。 門人に都筑道夫がいる。澁澤龍彦と都筑の編集と解説による『大坪砂男全集』全2巻(薔薇十字社)がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大坪砂男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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