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『大塔宮曦鎧』(おおとうのみやあさひのよろい)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、享保8年(1723年)2月に大坂竹本座にて初演。初代竹田出雲・松田和吉(のちの文耕堂)の合作で、近松門左衛門が本文を添削した。「太平記/綱目」の角書きがつく。三段目は『身替り音頭』(みがわりおんど)と通称される。 == あらすじ == === 初段 === (大内の段)後醍醐天皇は鎌倉幕府の執権北条氏が、皇位のことについても口を挟む専横を怒り、宝剣を持ち北条氏を呪う祈祷を自ら行う。参内した天台座主の大塔宮尊雲法親王はそれを諌める。六波羅探題の常盤駿河守範貞が先帝の皇子である逆仁親王を連れて参内し、鎌倉の意向として逆仁親王に位を譲るように勧める。逆仁はもと鎌倉北条氏の養子となっていたので鎌倉側に与している。後醍醐帝はほんらい八歳になるわが子の若宮に皇位を譲るつもりであったが、そこへ奈良の春日大社より使いの者が来て、社で花の房長く真っ赤な藤の花が咲いたと知らせる。これぞ逆仁に位を譲れとの神託であろうと範貞は主張するが、後醍醐帝はその神託に偽りあらば必ず神罰を蒙るであろうと大音で述べる勢いに、範貞もさすがにひるんで、ひとまず逆仁を連れて退出する。 (木津川の段)逆仁親王は藤の花の奇瑞を見せた奈良の春日社へ参詣にゆくとて、大勢の供を連れ木津川のあたりを通りかかる。木津川に掛かる橋を渡ろうとすると、その向うから六波羅の役人高橋九郎が来て逆仁の一行と出会うが、高橋は逆仁に、赤い藤の花というのが紅を使ったまがい物であることを打ち明ける。だがその橋の下には、大塔宮に仕える荒法師の則祐がひそみ話を聞いていた。則祐は橋げたに両手を突いて突っ張るとその怪力に橋は柱ごと持ち上がり、橋の上にいた逆仁たちはひとり残らず川に落ちる。則祐はその様子をあざ笑いながら、大塔宮のもとへと帰るのだった。 (無礼講の段)万里小路藤房の別邸では、無礼講と称して貴賎の別なく人が集まり、歌舞音曲を催して毎夜酒宴を開いている。じつはこれは、六波羅探題打倒のはかりごとをめぐらすための集まりであった。今日は若宮の生母で後醍醐帝の后である三位の局もひそかに訪れている。 そこに六波羅に仕える武士である土岐蔵人頼員(ときくらんどよりかず)が、三位の局に呼ばれて現われた。局が頼員に対面すると、頼員は平伏する。じつは頼員の妻の早咲は以前御所に仕えていたが、頼員と恋仲になったのが不義であると咎められ、両名とも処罰されそうになったのを、後醍醐帝と三位の局がこれを夫婦と認め許したのだった。頼員はその恩義を思い朝廷の側につく心を局に表し、座興に村上義光と二人で鎌倉北条氏を諷した萬歳を踊る。 だがこの酒宴の中には、六波羅の間者である高橋九郎が紛れ込んでいた。九郎の主人である駿河守範貞は後醍醐帝の后であるはずの三位の局に横恋慕しており、九郎は範貞のところへ連れて行くため局を捕らえようとする。そのとき一間の障子がさっと開くと、そこには鎧兜に身を固めた大塔宮護良親王。同じく武装の赤松則祐や平賀三郎といった名だたる勇士を従え、朝日の耀くような大塔宮の姿に九郎は振るえあがり、六波羅へ注進しようとするが頼員に討たれる。今こそ六波羅討伐の機は来たれりと、人々は勇み立つのであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大塔宮曦鎧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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