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大宮公園(おおみやこうえん)は、埼玉県さいたま市大宮区および見沼区にある67.8haの面積を有する埼玉県営の都市公園(広域公園)である。1990年(平成2年)に日本さくら名所100選に選ばれた。 == 歴史 == === 大宮公園 === かつて大宮公園にあたる敷地は見沼の入江があり、湿地帯が広がっていた。その名残は今もボート池や白鳥池に残る。 明治時代に政府は寺院・神社の整理を行うとともにその領地の大部分を国有地にした。1873年(明治6年)1月太政官(明治政府)が各府県に対して寺社の境内地等名所・旧跡地に公園を設定するため、その候補地を選定する旨を公告した。埼玉県では1874年(明治7年)11月に現浦和区の調神社境内を整備し浦和偕楽園とする布告を出した。これが浦和公園(調公園)の前身であるが、この頃大宮氷川神社旧境内地等も若干の樹木を伐採、小径をつけたくらいの偕楽園が造られたようだが、公園とは呼べるものではなかった。 1884年(明治17年)3月大宮宿その付近の村10にもおよぶ村の代表矢部忠右衛門、白井輔七、岩井右衛門ら43名は県令吉田清英に対して「公園及ビ維持方法ノ儀ニ付願上ゲ奉リ候」という嘆願書を提出した。嘆願書によると氷川神社が上地した官有地(国有地)のうち二ヵ所あわせて13町3反1畝8歩を人民の散歩、運動、健康保全のため人民偕楽園の地とされたいこと、維持費としては有志の者が金千円を拠出、銀行に預金し利息をそれに当てまた花、樹木等寄付を募るとした。埼玉県では直ちに内務卿山縣有朋、農務卿西郷従道に宛てて「官幣大社氷川神社引裂上地、公園ト定メラレ度キ伺」を提出、それに対し二ヶ所のうち寿能城跡地を除いて公園の設置が認められた。再度寿能城跡地を公園に含める為の陳情をしたが認められなかった。 この当時公園建設の技師が大宮一帯に居らず埼玉県で公園建設の技師を世話してもらい1884年(明治17年)12月東京の庭園師佐々木という者に設計を依頼した。1885年(明治18年)4月に公園の管理・休憩所として含翆亭という建物が完成し園内や東屋、ベンチを設置し、1885年(明治18年)9月22日に開園となった。公園の創設費は民間の寄付と園内の伐採した樹木の売り払った金を元にした。県営とは名前だけで埼玉県の予算では特別会計とされ維持・運営には苦労を伴った。拠出金の利息で運営する予定であったが時より不景気となり利息での拠出が出来なくなった。北足立新座郡役所が管理したが、1891年(明治24年)内務省訓令により公園は所在地の町で維持保存をすることになった。北足立郡大宮町に管理が移り、公園運営に色々問題が起こり1898年(明治31年)4月に直接管理に至った。そして埼玉県で初めての県営公園として整備される事となる。1921年(大正10年)に埼玉県に提出された林学博士本多静六と田村剛による「氷川公園改良計画」により、大規模な公園整備・拡張が進められ桜の植樹と埼玉県営大宮公園球場などが整備された。 1962年(昭和37年)に都市計画公園として決定され、1980年(昭和55年)に「第二公園」が大宮公園東側の見沼に、2001年(平成13年)は「第三公園」が第二公園南側の見沼に開設された。また、第二公園の北には旧大宮市により市営大和田公園が開設されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大宮公園」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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