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大宮宿(おおみや-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。 中山道六十九次(または木曾街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて4番目の宿場(武蔵国のうち、第4の宿〔現在では、埼玉県に属する第3の宿。〕)。 所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡大宮宿〔宝亀2年(西暦771年)10月27日以前は東山道武蔵国足立郡。〕。 現在の埼玉県さいたま市大宮区にあたる。 == 歴史 == === 大宮宿の設置 === 中山道の前身となる街道は、戦国時代に後北条氏によって整備されたが、その時代には浦和宿の次が上尾宿となり、大宮は両者の中間点で馬継ぎをする場であった。またその街道は、一の鳥居から氷川神社の参道を通り、神社の前で折れて迂回していた。神社の門前、参道沿いに既に町と呼べる集落があったようである。 大宮宿の脇本陣の主であった栗原家が伝えるところによると、天正19年(1891年)に栗原次右衛門保逢が地子免許と引き替えに宿役を勤めると願いを出した。免税は受け入れられなかったが、これを機に大宮宿が設けられたという。宿の名は氷川の大宮、すなわち氷川神社にちなむ。この年は徳川家康が北条氏にかわって関東地方を支配するようになって間もなく、他の宿場の整備年代との関連で、もう少し年代が下るのではないかと言われる〔『大宮市史』第3巻上、658-659頁。史料は天明6年8月『当宿七組発端 御支配年数、原地発之事、并新堀之訳迄』。〕。 当初の大宮宿は、大門通りと呼ばれた参道沿いに、宮町、中町、下町と続く3つの町からなった〔『当宿七組発端』(『大宮市史』第3巻上、658-659頁)。〕。寛永元年(1624年)には、1キロメートル北東の寿能城跡に屋敷を構えていた北沢甚之丞直元が42軒の村民とともに移住し〔『北沢家家譜』(『大宮市史』第3巻上、659頁)。〕、大門町を開いて4町となった〔『当宿七組発端』(『大宮市史』第3巻上、658-659頁)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大宮宿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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