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大山デブ子 : ミニ英和和英辞書
大山デブ子[おおやま でぶこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大山 : [たいざん, おおやま]
 【名詞】 1. great mountain 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

大山デブ子 ( リダイレクト:大山デブ子 ) : ウィキペディア日本語版
大山デブ子[おおやま でぶこ]

大山 デブ子(おおやま でぶこ、1915年4月13日 - 1981年7月15日)は、日本の女優である。出生名神原 ヤス(かんばら やす)、結婚後本名伊勢野 ヤス(いせの やす)。一時期、蒲田 デブ子(かまた でぶこ)、大山 でぶ子名義で活動していた時期もあった。
== 人物・略歴 ==
1915年大正4年)4月13日奈良県奈良市にある興福寺の僧侶・神原清三郎と妻ハナの四女として同市内に生まれる。
大阪府旧制・小坂小学校(現在の東大阪市立小阪小学校)に在学中の1924年(大正13年)5月、姉政子が松竹下加茂撮影所に入社、橘喜久子の芸名でデビューした。ヤスも同年、同撮影所の子役として『元禄女』に出演し、田中絹代と共にデビューを果たす。1925年(大正14年)の末、下加茂撮影所が閉鎖、全員が蒲田へと引き揚げた際に、彼女も姉とともに松竹蒲田撮影所へ移り、芸名を「蒲田 デブ子」とする。
1927年(昭和2年)、姉の病気もあり二人で松竹を退社、大和映画に移籍する。1928年(昭和3年)に河合プロダクション(後の河合映画製作社)に入社、その際に「大山 デブ子」に改名している。デブ子は愛嬌たっぷりの肥満体の大女で、かえってそれがユニークな存在となり、巨漢俳優・大岡怪童とともに映画界でも名物的存在となった。二人のコンビは大衆から広く受け入れられ、数多い共演作品が作られた。
河合映画が大都映画となってから一層本領を発揮、200本以上の映画に出演する。彼女がスクリーンに映っただけで観客が沸くほどであった。多い時には年間22本もの映画に出演、そのほとんどが三枚目的な役柄であった。また、大都映画時代には脚本家の伊勢野重任との恋愛を実らせ、1939年(昭和14年)所内にて結婚披露宴を行っている〔ノーベル書房編集部編・池田督監修、『写真集 もう一つの映画史 懐しの大都映画』、1993年3月20日、87頁〕。その2年後の1941年(昭和16年)に、大都映画を退社〔『月刊ノーサイド』株式会社文藝春秋、1995年9月1日発行、58頁〕、その後は夫の郷里である愛媛県松山市に落ち着き、二人の男子をもうけた〔『日本女性人名辞典』株式会社日本図書センター、1993年6月25日発行、217頁〕。夫の伊勢野は、家庭に入った彼女が「良妻賢母の鑑」であったと語っている〔稲垣浩、『日本映画の若き日々』毎日新聞社、1978年3月1日発行、238頁〕。
晩年は病気がちとなり、1973年(昭和48年)から糖尿病と高血圧のため入院や通院を繰り返していた。1979年(昭和54年)には緑内障を併発して失明する。1981年(昭和56年)1月19日、松山市土佐田町の三宅内科胃腸科医院に入院、同年7月15日午前6時15分、慢性腎不全のために亡くなった。享年67(満66歳没)。告別式は同年7月17日、下伊台町西法寺で行われた。喪主は二男の春夫が務めた〔毎日新聞、1981年7月19日朝刊〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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