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大山 健二(おおやま けんじ、1904年2月8日 - 1970年)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.112.〕〔明潮社, p.38.〕〔''大山健二''、''jlogos.com'', エア、2013年2月15日閲覧。〕〔''大山健二''、日本映画データベース、2013年2月15日閲覧。〕〔''大山健二''、日本映画情報システム、文化庁、2013年2月15日閲覧。〕〔''大山健二''、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年2月15日閲覧。〕〔''大山健二''、KINENOTE, 2013年2月15日閲覧。〕〔''大山健二''、allcinema, 2013年2月15日閲覧。〕〔''大山健二''、映画データベース、東宝、2013年2月15日閲覧。〕〔''大山健二''、テレビドラマデータベース、2013年2月15日閲覧。〕〔''大山健二''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月15日閲覧。〕。本名大山 健治〔。1920年代 - 1930年代の松竹蒲田撮影所、松竹大船撮影所の映画において、大柄な体格に、お人よしの学生がハマリ役であり、その姿は「松竹の青春娯楽映画の好ましい彩り」と評された〔。 == 人物・来歴 == 1904年(明治37年)2月8日、福島県田村郡三春町に生まれる〔〔〔。姉の孫にあたる人物に高崎俊夫がいる〔清水宏と大山健二 、高崎俊夫、清流出版、2013年2月15日閲覧。〕。 旧制小学校を卒業後、両親とともに日本統治時代の朝鮮の京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)に移り〔、旧制・京城薬学専門学校(現在のソウル大学校薬科大学)を卒業し、病院に勤務した〔〔〔。同校卒業後、東京に移り〔、1925年(大正14年)、東京の松竹蒲田撮影所が「俳優募集」をしていることを知り、これに応募して、同撮影所の研究所に入る〔〔〔。同研究所卒業後、同社に入社、翌1926年(大正15年)3月12日に公開された大久保忠素監督のサイレント映画『愛の力は雪でも溶す』に出演して、映画界にデビューした〔〔〔〔。1932年(昭和7年)1月9日、若水絹子、澤蘭子、江川宇礼雄、飯塚敏子、富士龍子とともに準幹部に昇格〔松竹, p.244.〕、同年1月29日に公開された成瀬巳喜男監督の『女は袂を御用心』で主演した〔。1936年(昭和11年)1月15日、同撮影所は、全機能を神奈川県鎌倉郡大船町(現在の同県鎌倉市大船)に新設された松竹大船撮影所(現存せず)に移転、それにともなって、大山も異動した〔〔〔。 第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)には松竹を退社して、フリーランスとなる〔。同年3月23日に公開されたマキノ正博監督の『不沈艦撃沈』が所属時の映画出演の最後であり〔〔〔〔、同年9月に「松竹大船連」として、京都座の時局笑篇『プロペラ一家』に岡村文子とともに舞台実演したのが、記録に残る所属時の最後の仕事である〔国立劇場, p.161.〕。 戦後まもなくから東宝・新東宝中心に出演する〔〔〔。1957年(昭和32年)に大映東京撮影所に入社、脇役として多くの映画に出演した〔〔〔。1959年(昭和34年)には、フジテレビジョンが製作・全国ネット放映した単発テレビ映画シリーズ『東芝土曜劇場』に出演しているが、その後、テレビ映画への出演は少なく、ほかには同社のテレビ室(現在の大映テレビ)が製作した連続テレビ映画『ザ・ガードマン 東京警備指令』(1965年)、『土曜日の虎』(1966年)にそれぞれゲスト出演したのみである〔。1969年(昭和44年)4月19日に公開された臼坂礼次郎監督による『ある見習看護婦の記録 赤い制服』が、記録に残る最後の出演作となった〔〔〔〔。 1970年(昭和45年)に死去したという〔。満66歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大山健二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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