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大岡春卜(おおおか しゅんぼく、延宝8年(1680年) – 宝暦13年6月19日(1763年7月29日))は、江戸時代中期の大坂で活躍した狩野派の絵師。ライバルとも言える橘守国と共に、近世大坂画壇初期を代表する絵師。法眼位に叙せられる。 諱は愛翼、愛董。春卜をはじめ雀叱、一翁、翠松などの諸号がある。本姓は藤原で、高平春卜と名乗る時期もあった。 == 経歴 == 大坂出身。師は不明で京狩野に近いとする説もあるが〔 『鬼貫と春卜』展図録、p.52。〕、画風から江戸狩野、特に「春」や「信」の字が門弟たちに踏襲されている(「春」字のほうが圧倒的に多い)ことから、江戸幕府の表絵師山下狩野家の狩野春雪信之(狩野元俊長男)に学んだと推測される〔脇坂淳「狩野派系画家」『近世大坂画壇』、p.186。〕〔岩井茂樹 「二宮金次郎「負薪読書図」源流考」『日本研究』第36集、大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国際日本文化研究センター、2007年9月28日、pp.34-35。〕。マンネリ化し停滞気味の狩野派をよそに大胆な構図と個性豊かな筆致で作品を画き、高い評価を得た。絵画の普及に努め、『画本手鑑』などの絵手本や画論を、同じ大坂の絵師・橘守国と競うように刊行した。また冊子の挿絵を得意とし、庶民からも人気を博した。朝廷に厚遇され、享保2年(1717年)頃に法橋〔春卜の号の1つに、「丁酉」という干支のような号がある。春卜は他にも「乙卯法眼」(朱文法印)という干支の入った印章を愛用しているが、「法眼」とつくように、これは法眼位を得た享保20年(1735年)の干支である。とすれば、丁酉も法橋位を得た享保2年(1717年)を指す可能性が高く、通説の30代後半に法橋位を得たという判断とも矛盾しない(今井美紀 「春卜と俳諧」 『鬼貫と春卜』展図録、p.56)。〕、享保20年(1735年)法眼を与えられ、元文4年(1739年)には大覚寺の寛深門主に家臣として召し抱えられている。 幼少期の木村蒹葭堂に、画の手ほどきをしたことで知られる。また伊藤若冲は、春教と号していた初期に春卜の絵本から学んでおり、春卜の弟子だったとも言われる。彼ら以外にも多くの門人を育て大岡派の祖となった。最晩年まで健康と体力に恵まれていたらしく、宝暦5年(1755年)妙心寺霊雲院「若松に鶴図」、翌年同衡梅院〔「龍虎羅漢図」12面、「楼閣山水図」14面、「獅子図」11面など全52面。〕、宝暦8年(1758年)高野山清浄院「山水図」などに襖絵を描いている。享年84。菩提寺は、大阪天王寺区下寺町の光明寺。墓碑銘には、漢学者・岡白駒による長文の撰文が刻まれており、春卜の伝記をある程度知ることができる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大岡春卜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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