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大島 公一(おおしま こういち、1967年6月17日 - )は、東京都板橋区出身の元プロ野球選手(内野手)。 現役引退後のからまで、オリックス・バファローズでコーチを務めていた。 == 来歴 == === アマチュア時代 === 東京都板橋区西高島平で、電気配線工事を営む家庭に生まれる〔週刊ベースボール、2002年9月2日号、P.56〕。兄弟構成は姉が一人。小学校2年生でリトルリーグの板橋リトルに入り、野球を始めた。4年生の時には右ヒジにヒビが入り、一時は野球を続けることも危ぶまれたが自然に回復〔。外野手などを務めていたが5年生からは遊撃手となり、6年生の時は選抜チームで関東大会に参加して大久保博元のいる水戸選抜を破って優勝し、全国大会に進んだ〔リトルリーグ インタビュー 〕。中学時代はボーイズリーグの志村球友会(現志村ボーイズ)に所属し、撫養高校などで監督を務めた天野利明監督からマンツーマンで指導を受ける。シニアでは全国大会ベスト4を3回経験した〔。 大学附属であることなどからシニアのチームメート数名と共に法政二高に進み、2年春のには選抜大会に出場。小川博文を擁する拓大紅陵に2回戦で敗れている。卒業後は法政大学に進学したが、高校野球部の同級生67名の中で大学野球部に進んだのはわずか2名だけだった〔週刊ベースボール、2002年9月2日号、P.57〕。このため、他の仲間の分まで頑張ろうと責任感が芽生えたという〔。なお、大学の同級生には葛西稔や田中善則がいた。 大学では当初は守備要員となっていたが、2年の冬に竹内昭文監督に勧められて俊足を活かすため右打ちからスイッチヒッターに転向〔週刊ベースボール、2002年9月2日号、P.58〕。当初からミートはできたが、スイングスピードを上げるためにトスバッティングなどを繰り返した〔週刊ベースボール、1999年7月19日号、P.12〕。転向直後の3年春から六大学リーグ戦で3期連続で二塁手のベストナインに選出され、4年春までの法政のリーグ4連覇に貢献した。また4年次には主将を務め、リーグ通算71試合出場、228打数68安打、打率.298、3本塁打、27打点の成績を残している。 に大学を卒業すると社会人野球の日本生命に進み、1年目から一番・二塁手としてレギュラーに定着した。同期で二番・中堅手の内匠政博とともにチームを引っ張り〔毎日新聞、1990年10年19日付朝刊、P.28〕、同年の日本選手権でチームは優勝。はアジア選手権で代表入りし、同大会で盗塁王に輝くなどバルセロナ五輪への出場権獲得に貢献した〔毎日新聞、1992年7月20日付朝刊、P.20〕。翌にはバルセロナ五輪代表にチームメートの杉浦正則、十河章浩らとともに選出されている。予選リーグの第3戦まで無安打と苦しんだが、3位決定戦の対アメリカ戦で3安打4打点を記録するなど、第4戦以外は全て一番・二塁手として先発出場して日本の銅メダル獲得に貢献した〔 別冊宝島、1545号、P.82〕。同大会の成績は打率.310、出塁率.459で、トップバッターの役割を果たしている〔 別冊宝島、1545号、P.87〕。 同年の都市対抗では打撃賞に輝き、チームの7年ぶりの優勝に貢献した。この年のドラフト会議では3位以上の上位指名でなければプロ入りしない考えだった〔が、3巡目までに指名はなかった。このため4巡目の指名の前に近鉄から受けた指名の挨拶の電話に断りを入れたが、それでも近鉄は5巡目に大島を指名した〔。気持ちは揺れたものの球団側の熱意を感じ〔、結局は同じ日本生命の内匠とともに入団を決めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大島公一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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