翻訳と辞書
Words near each other
・ 大島昌宏
・ 大島明秀
・ 大島明美
・ 大島映二
・ 大島春行
・ 大島晃
・ 大島智
・ 大島智子
・ 大島暁雄
・ 大島末男
大島本
・ 大島杏子
・ 大島村
・ 大島村 (北海道)
・ 大島村 (宮城県)
・ 大島村 (岐阜県)
・ 大島村 (岡山県浅口郡)
・ 大島村 (新潟県三島郡)
・ 大島村 (新潟県北蒲原郡)
・ 大島村 (新潟県南蒲原郡)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

大島本 : ミニ英和和英辞書
大島本[おおしまぼん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

大島本 : ウィキペディア日本語版
大島本[おおしまぼん]

大島本(おおしまぼん)とは、
# 源氏物語のきわめて著名な写本の1つ。本項で主に解説する。青表紙本系統である。
# 上記の「大島本」を含む、大島雅太郎が旧蔵していた古典籍。#その他の「大島本」参照。
# 源氏物語の写本の1つで、河内本系統のものにも、特に大島本と呼ばれるものもある。上記の青表紙系統本との混同を避けるため、今日では普通大島河内本と呼ばれる。
源氏物語の写本としての大島本は、ほぼ全巻が揃い、青表紙本系統の本文を持つ源氏物語の写本のうち、現存最善本と考えられている。現在出版されている『源氏物語』の学術的な校訂本は、ほとんどこの大島本を底本にしている。
佐渡の旧家から昭和初期(1930年(昭和5年)、1931年(昭和6年)の頃)に出現し、後に大島雅太郎が買い取って世に出たため、大島本という名がついた。大島雅太郎はさまざまな書物の古写本を収集したため、「大島本」の名で呼ばれる古写本は多くあるが、通常「大島本」と呼ぶ場合は、源氏物語のこの写本のことを言う。
本項で、以下「大島本」とは、大島雅太郎旧蔵の源氏物語の写本を指す。
『源氏物語』は、紫式部自筆本が現存せず、また平安時代中期のものと認められる写本も存在しない。その中で藤原定家が校訂した、いわゆる「青表紙本」とされる写本は多く現存する。源氏物語の本文系譜を遡及すると、陽明文庫本源氏物語保坂本源氏物語等、別本の一部に古態を認める説もあるが、一般には、江戸時代以降、広範に流布した上、近代以降でも、池田亀鑑石田穣二阿部秋生らの示唆したように、現存源氏物語諸本は、青表紙本原本に本文系譜遡及の限界を見る考えが浸透していると言える。
現存する青表紙本系統の写本の中で、藤原定家が校訂した本文は、藤原定家自筆本5帖(伝承筆者の帖も含む)が現存する。ついで、定家自筆本を忠実に模したとされる明融臨模本8帖が優先順位第2位。3位に位置するのが、この大島本である。前2者は限られた帖しか現存しないが、大島本は、浮舟帖を除くほぼ全巻が現存する点、および、本文特性の優位性において、出現以来、今日に至るまで、源氏物語諸本中、最も重要な写本であるとされてきた。
== 来歴 ==

=== 昭和以前 ===
「関屋」巻奥書によれば、室町時代公卿である飛鳥井雅康1436年(永享8年)‐1509年(永正6年))が守護大名大内政弘の求めに応じて1481年(文明13年)に作成したとされる。応仁の乱によって京都が戦乱の地となり古典籍を含む多くの文化財が失われた中で、当時都から遠く離れた山口の地を拠点として西国一の守護大名であった大内氏は、歴代当主が文化面でも拠点である山口が「西の京」と呼ばれるのにふさわしくなるべく活動していた。政弘は大内氏歴代当主の中でも最も多くの蔵書を確認できる人物であり、三条西実隆や飛鳥井雅康などに書写を依頼して「山口殿中文庫」、「大内文庫」とも呼ばれる蔵書の充実を図っていた。大島本の「関屋」巻奥書に見える源氏物語写本の作成も、その一環であると考えられる〔佐々木孝浩「蔵書家大内政弘をめぐって」佐藤道生編『名だたる蔵書家、隠れた蔵書家』慶応義塾大学出版会、2010年(平成22年)11月、pp. 57-79。 ISBN 978-4-7664-1764-7〕。
但し近年、一部の大島本に見える「宮河」なる印の有無と綴穴の多寡が相関性を有することから、現存本は、複数の祐筆によって、雅康本「関屋」巻を含む吉見家架蔵の諸本(「宮河」印を有する19 帖、他の34帖)をそれぞれ書写し、揃いとした写本群であるという見解が提出された〔佐々木孝浩「「大島本源氏物語」に関する書誌学的考察」「斯道文庫論集」第41輯(慶應義塾大学斯道文庫、2007年(平成19年)2月28日)pp.165-200、『大島本源氏物語の再検討』(和泉書院、2009年(平成21年)10月)ISBN 978-4757605299 所収。〕。厳密にいえば、雅康本の転写と確言し得るのは「関屋」巻だけで、他の52帖の書本の素性は不明と言うことになる。
現存本53帖は、「夢浮橋」巻奥書によって、1564年(永禄7年)頃、大内氏の家臣であり、大内氏が滅びた後毛利氏の家臣となった石見の豪族吉見氏の当主吉見正頼が揃えた、本来、54帖の写本であると記されている。
いっぽう、本写本が雅康自筆本であるとする池田亀鑑説を前提として、大内氏から吉見氏の元に移った経緯について、大内政弘の子大内義興と吉見正頼の娘大宮姫との婚儀の際に嫁入り道具として贈られたとする説もある〔田坂憲二「大島本源氏物語をめぐって -その伝来過程を中心に-」『香椎潟』第33号、福岡女子大学、1987年(昭和62年)9月25日、pp. 13-26。のち『源氏物語享受史論考』風間書房、2009年(平成21年)10月、pp. 484-505。 ISBN 978-4-7599-1754-3 、柳井滋「大島本『源氏物語』の書写と伝来」新日本古典文学大系『源氏物語』第1巻、解説、岩波書店、1993年(平成5年)、上原作和「青表紙本『源氏物語』原論 青表紙本系伝本の本文批判とその方法論的課題」王朝物語研究会編『論叢源氏物語 4 本文と表現』新典社、2002年(平成14年)5月、pp. 17-78。 ISBN 4-7879-4923-3 のち『光源氏物語學藝史 右書左琴の思想』翰林書房、2005年(平成17年)5月、pp. 134-179 。 ISBN 978-4-87737-229-3〕。
ただし、本写本の書誌から確実なことは、吉見正頼が毛利と尼子の和議調停に奔走したことで知られる聖護院第25代門跡である道増1508年(永正5年)-1571年(元亀2年))とその甥道澄1544年(天文13年)-1608年(慶長13年))の書写による桐壺の巻と夢浮橋の巻を加え、大内政弘旧蔵一条兼良筆河内本で本文を校合し、兼良の子・良鎮大僧正の注記を加えたと言う両巻奥書に記された事実のみである。
その後、昭和初めまでの来歴は一切不明とされてきたが、上原作和は、1930年(昭和5年)頃までこの写本を保有していた、佐渡貝塚田中家を特定したとして、その前所有者を長州藩毛利家、さらにその前所有者を吉見氏を継承した大野毛利家と遡及的にこれを推定している〔上原作和「佐渡時代の大島本『源氏物語』と桃園文庫」『光源氏物語傳來史』武蔵野書院、2011年(平成23年)11月、pp…142-161 、286‐312。ISBN 978-4-838-60256-8〕。また、大島本が佐渡に渡った時期は、『海舟日記』から毛利家の家財整理がなされた1890年(明治23年)とし、この家財整理は勝海舟が主導し、最後の佐渡奉行鈴木重嶺が田中家に周旋したと類推した。これは、鈴木重嶺の短歌結社「詞林」同人が、重嶺の没後、佐佐木信綱心の花」に合流したほどの歌縁を根拠とする。大島本の佐渡時代の所有者・貝塚田中家は医業、薬業のかたわら和歌をたしなみ、当主・田中穂積、義兄・加藤瑞軒が鈴木重嶺、佐佐木信綱に師事していることによる類推であると言う。ちなみに、のちの所有者・大島雅太郎も「心の花」 同人であった。
いっぽう、藤本孝一は、本写本の全体にわたって、複数の異なる筆跡によるおびただしい本文の補訂の後が見られることから、死蔵されることなく読まれ続けていたと考えている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大島本」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.