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大島 貞薫(おおしま さだか、1806年11月20日(文化3年10月11日) - 1888年(明治21年))は、但馬国(兵庫県)出身の洋兵学者。幕末に蘭学を学び、維新後の明治初期には兵学寮で西洋式陸軍幹部の育成に貢献した。幼名は元也、後に肇。17歳で幸兵衛を名乗り、33歳で家督を継いで万兵衛と変えた。諱に忠謙、貞謙、最後に貞薫とした。他に貞右衛門と表記される場合もある。 ==経歴== 1806年(文化3年)に但馬国養父郡に生まれる。旗本の大藪領主小出英道の家臣。国詰であったが、洋式兵学に詳しい大島を小出が江戸へ召し寄せ、嘉永の頃に下曽根信敦の門下となり蘭式兵学を学ぶほか、佐久間象山・高島秋帆・勝海舟などと往来して研究を進めた。後に郷里に帰り、私塾「松風竹露邨舎」を開いて蘭式兵学を師弟に教えた〔竹本2007.7〕。 1856年(安政3年)3月8日に講武所砲術教授方の下曽根信敦(金三郎)の指揮のもと、駒場野で大規模な洋式調練が行われ大島も第三隊教佐脇として参加している〔「安政三年駒場野調練図」〕。 紀州藩は1865年(慶応元年)から1868年(明治元年)にかけてプロシア式国民皆兵主義を取り入れた軍制改革を行ったが、大島はこれに兵式顧問として招聘され、軍事指導を行っている〔竹本2007.9〕。 明治政府が直属軍の整備を始めた1868年(明治元年)には5月23日から京都兵学校の御用掛・教授として採用され、11月8日付で兵学権允に補任され組織と共に大阪兵学寮に移り、1870年(明治3年)8月には兵学允に昇進、10月からは同じく大阪において高畠道憲と宮本信順と共に徴兵掛を命じられた。これには翌月に発布された「徴兵規則」に配慮したものだった〔古屋〕。 1871年(明治4年)春に大阪兵部省で実施された徴兵検査では検査場幹事を担当した。11月9日には兵学少教授となり、翌1872年(明治5年)1月26日には兵学寮教授として東京兵学寮に着任した。再び徴兵掛を命ぜられたが、これも翌1873年(明治6年)1月に発布される「徴兵令」を前にした人事であり、施行前には曾我祐準・宮本信順と共に兵部大輔の山県有朋より徴兵令の内容について諮問を受けている〔。 この年1月20日には兵学侍講御用を命じられ、明治天皇に西洋兵学を進講した。6月13日、辞表提出。位一級を進められて従六位となり、7月10日に退任。悠々自適な隠居生活を送った後、東京で1888年(明治21年)に83歳で死去した〔竹本2010.12〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大島貞薫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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