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葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)は、天正18年(1590年)に発生した、豊臣秀吉の奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣による新領主・木村吉清・清久父子に対する反乱である。 == 背景 == 葛西氏・大崎氏は、ともに陸奥国中部(宮城県北部~岩手県南部)の戦国大名であったが、伊達政宗の曾祖父・稙宗の代から伊達氏に従属しており、独自に兵を小田原に派遣できる状態ではなかった〔「余目文書」には、「奥州の仕置は政宗が太閤殿下から一任されている」と政宗が称し、そのように振舞っていた旨の記述がある。〕。 しかし、天正18年(1590年)7月26日、葛西晴信・大崎義隆の両名は小田原に参陣しなかったことを理由に秀吉に領地を没収され、葛西・大崎両氏の旧領13郡〔13郡のうち、胆沢・江刺・磐井・気仙・本吉・登米・桃生を葛西七郡、栗原・遠田・志田・玉造・加美を大崎五郡と称した。また、桃生・志田両郡の一部は稙宗の時代から一貫して伊達氏の勢力圏内であり、奥州仕置後も引き続き領有を認められていた。〕(胆沢・江刺・磐井・気仙・本吉・登米・桃生・牡鹿・栗原・遠田・志田・玉造・加美)には新たに木村吉清が封じられた。吉清は葛西氏の居城・寺池城に拠り、子の清久を大崎氏の居城・名生城に配置して領国経営を開始したが、その統治手法は旧葛西・大崎家臣団らの強い反発を買うものであった。浅野長吉が仕置を終えて去った直後の10月初旬、木村領の加美郡米泉(現:加美町米泉)で伝馬役をめぐる紛争が起こった。これは正規の伝馬役に対する公然の抵抗として起こされたもので、参加者は100名におよんだと推測されており、一揆の前兆と見られている〔小林(2003)pp.283-284〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「葛西大崎一揆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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