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大崎 直持(おおさき ただもち〔名は「なおもち」とも読む。「ただ」の読みから足利直義から偏諱を受けたものと考えられるが、観応3年(1352年)以前の観応の擾乱などにおける詳しい動向は解っていない。本文中にある通り、のちに足利義詮に従属していることから、読みを改めた可能性も考えられる。〕、嘉暦2年(1327年) - 永徳3年/弘和3年(1383年))は、南北朝時代の陸奥大崎氏の初代当主。左京大夫。 == 生涯 == 斯波家兼の嫡男として生まれる。幼名は彦三郎。観応3年(1352年)の治部大輔直持が初見〔〔『大日本史料』第6編16冊394頁、「古證文」〕。父が若狭守護であったので守護代として若狭勢を率い、足利義詮を援けて持明院御所を警固したという。文和3年(1354年)に父が奥州管領に補任されるとそれに従って奥州に入部。延文元年(1356年)に父が逝去すると直ちに奥州管領として行動した。康安元年(1361年)左京権大夫、貞治2年(1363年)左京大夫の官途を有した。 貞治6年/正平22年(1367年)、将軍足利義詮は結城顕朝宛て御教書を発給し、石橋棟義に協力し、奥州の両管領とともに吉良治家を挟撃するよう命じている。当時、治家は幕府から謀反人と認定されており、常陸小田氏の家臣と連携して多賀城に迫る勢いを見せていたらしい。幕府は治家には奥州両管領を、小田氏家臣には石橋棟義をそれぞれ鎮圧にあてていたが、小田氏家臣らが国境を越え陸奥高野郡に侵入、治家に呼応する動きを見せたため、治家退治に全力を注ぐよう方針を転換、常陸の石橋棟義に奥州侵攻を命じ結城氏にも軍に加わるよう命じたのである。義詮の御教書にある「両管領」のうち一人は大崎直持である。 永徳3年(1383年)に死去。嫡男の詮持が家督を継いだ。 説によっては詮持から大崎姓を名乗ったとする見解もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大崎直持」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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