|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 平 : [たいら, ひら] 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm ・ 平氏 : [へいし] (n) the Tairas ・ 氏 : [うじ] 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth
大平氏(おおひらし)は、土佐国高岡郡の蓮池城を拠点とする豪族。鎌倉時代初期から永禄9年(1566年)まで続いた。藤原秀郷の末裔という。 == 歴史 == * 大平氏は見聞諸家紋に「土佐之藤之大平 近藤国平末」あるため、藤原秀郷より5代孫にあたる近藤太・脩行の5代孫・近藤国平の系統と考えられる。国平は治承・寿永の乱に功があり讃岐守護に任ぜられる。 * 蓮池城は、平家の有力家人であった蓮池権守家綱が嘉応2年(1170年)に築城した。家綱は地名から蓮池と名乗る。 * 治承・寿永の乱により平家が滅び、家綱も夜須七郎行宗に討たれ、蓮池城周辺一帯は近藤国平に与えられる。 * 近藤国平の子孫が大平氏を名乗り、350年にわたり蓮池城主となる。駿河国廬原郡(庵原郡)大平郷(現静岡市清水区大平)にちなむ。 * 大同5年(810年)、高岳親王は薬子の変に連座して皇太子を廃され落髪、真如法親王となった。貞観3年(861年)より土佐国高岡郡高岡郷の清瀧寺に入山した折、今村、田原、大平の三族が近習しこの地に土着したという伝承があり、その末裔の可能性もある。 * 『吾妻鏡』に大平太郎左衛門の記述があり、いずれも正月などの武者揃えと思われ、御家人身分と考えられる〔吾妻鏡 嘉禎2.4.19、建長2.1.2、3.1.3、6.1.2、8.1.2等〕。 * 大平氏は室町時代、地頭として、時に守護代として主家にあたる細川氏のみならず五山の禅僧や公家衆とも交わり、和歌を冷泉為広に学ぶなど文化的教養を身につけていた。 * 応仁元年(1467年)に応仁の乱が起きると、「大平之女房」という女性が関白一条教房夫人と縁者であったため、大平氏は教房の土佐下向に尽力した。堺から大平氏の領地の猪尻の港まで船を用意し、居館の蓮池城に10日ほど滞在した後、所領であった幡多荘へと向かった。 * その約90年後、大平氏は土佐一条氏に滅ぼされることになる。一条氏の下向当時の当主は国雄とも父の国藤ともいわれる。そのような文芸を好む体質や在京性が、戦国の乱世を生き抜くには華奢すぎた。 * 戦国時代の土佐には大平氏の他に、幡多郡に抜群の家格を誇る土佐一条氏が、高岡郡西部にはやはり文人として聞こえた津野氏が、吾川郡には吉良氏、長岡郡北部に本山氏、長岡郡南部に長宗我部氏、香美郡に香宗我部氏、安芸郡に安芸氏が割拠し、土佐七雄と呼ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大平氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|