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大府飛行場(おおぶひこうじょう)は、かつて愛知県大府市と東海市にまたがる地区にあった飛行場である。別名、知多飛行場。 現在の知多半島道路大府東海インターチェンジの北側一帯に展開していた。 == 三菱重工による飛行場着工 == 零式艦上戦闘機を代表とする数々の航空機製造で名をはせた三菱重工業名古屋航空機製作所(現:名古屋航空宇宙システム製作所)は、古くから名古屋市の大江工場に生産拠点を設けていた(現在は三菱航空機(2代目)の本社も設けられている)。 当時三菱による生産機の輸送は、大江工場で作った機体を牛車・馬車・トラックに分載し、岐阜県の各務原飛行場に運ぶという非能率で非合理な方法に頼っていた。 双発機の場合、胴体は牛2頭で曳いた。左右の主翼は荷車に枠を組んで立てかけ、牛が1頭ずつで曳いた。尾翼なども枠組みで2つに分け、それぞれを1頭の馬で曳いた。エンジンと付属部品は2台のトラックで運んだ。したがって1機運ぶのに合計4頭の牛、2頭の馬、2台のトラックが必要だった。加えて、道は狭くてでこぼこで、休み休み行くので、各務原までの48kmを24時間も要した。 中でも小牧から犬山にかけての狭い道路では牛車や馬車で曲がるのは容易でなく、牛・馬をはずして人力で台車を持ち上げ向きを変えた。 主翼は立てて運ぶので、風のある日は、前に進めず、風が治まるまで人・牛・馬ともうずくまって待つしかなかった〔中日新聞社会部『あいちの航空史』中日新聞本社(1978年)〕。 これを少しでも早く解消するために、近隣に滑走路付きの組立工場の設置が迫られた〔大府市誌編さん刊行委員会『大府市誌』愛知県大府市(1986年)〕。 当時の知多郡大府町と三菱重工業名古屋航空機製作所が密接な関係を持つようになったのは、1941年(昭和16年)10月からである。 1941年(昭和16年)10月15日、三菱は大府町と隣接の知多郡上野町(現東海市)にまたがる丘陵地帯におよそ570万坪(19平方キロメートル)の土地を取得し、17日に「知多飛行場および知多工場」として起工式を挙行している〔。 この土地の買収には当時の酒井町長をはじめ、町議会の労に負うところが大きかった〔大府市誌編さん刊行委員会『大府市誌 資料編 近代現代』愛知県大府市(1991年)〕。 知多丘陵地の山を削り、谷を埋める大工事であった。建設にあたって知多郡・愛知郡・碧海郡などの各種団体、町村奉仕団、中国捕虜を使役して、スコップ・一輪車・モッコで日々数千人で造成したが、遅々として進まなかった〔大府町史編さん委員会『大府町史』(1966年)〕。 なお、勤労奉仕に対し軍当局から若干の謝礼金が出された〔東海市史編さん委員会「第7章 戦時体制と生活」『東海市史 通史編』愛知県東海市(1990年)〕、とあり、全くの無償労働ではなかったようである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大府飛行場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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