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大庭 景親(おおば かげちか)は、平安時代末期の相模国の武将。平良文の末裔である鎌倉景政の流れを汲む大庭氏の一族(景親は景政の曾孫にあたる)。 平治の乱後に平家の忠実な家人になり、治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破した。しかし、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑された。 == 生涯 == === 大庭御厨 === 大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の下司職を相伝していた。天養元年(1144年)に源義朝の郎党が相模国田所目代と共に三浦氏、中村氏を率いて大庭御厨に侵攻した(大庭御厨事件)。この義朝らの行動は朝廷から不問に付される。 保元元年(1156年)の保元の乱では義朝の軍勢に属し〔この従軍は義朝への私的な臣従ではなく、後白河天皇の命を受けた国衙からの命令に従っただけという説もある。(元木泰雄『武士の成立』『保元・平治の乱を読み直す』)〕、兄の景義とともに白河北殿の西門を守る源為朝に挑みかかり、後三年の役で源義家のもとで戦った鎌倉景政の末裔であると名乗りを上げた。強弓の勇者為朝は鏑矢を放ち景義の左の膝を砕いた。景親は落馬した兄を助け出して退散している。 保元の乱は義朝の属する後白河天皇方の勝利に終わったが、平治元年(1159年)の平治の乱で義朝は敗死して源氏は没落する〔景親は罪を得て斬られるところを平氏に救われ、これに大恩を感じて平氏の家人として仕えるようになったと『源平盛衰記』には記されている。この罪はどのようなものに当たるのかは現在わかっていない。平治の乱で命を救われた恩義ではないかという見方もあるが、義朝勢の詳細を記した『平治物語』には大庭景親が源義朝に従って出陣したとの記載はない。〕。 その後、相模国の国衙在庁系豪族の三浦氏や中村氏は義朝に近い立場であったため相模国内においては劣勢に立たされ、逆に義朝とは疎遠であったと思われる景親は平家への接近に成功し、それによって相模国内の大庭氏の立場は強化される〔野口実『源氏と坂東武士』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大庭景親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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