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大慈院聖久 : ミニ英和和英辞書
大慈院聖久[だいじいん せいきゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [じ]
 【名詞】 1. love 2. affection (for) 3. pity 
: [ひじり, せい]
  1. (pref) saint 2. st.

大慈院聖久 : ウィキペディア日本語版
大慈院聖久[だいじいん せいきゅう]
大慈院 聖久(だいじいん せいきゅう、応永2年(1395年) - 永享5年閏7月13日1433年8月27日)は、室町時代前期の女性比丘尼御所大慈院の住持。室町幕府第3代将軍・足利義満の娘。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教らの異母妹。南御所大慈院殿と称される。
== 生涯 ==
父は足利義満。母は側室の寧福院。義満から特に寵愛され、義満の正室である日野康子猶子になった。応永8年(1401年)8月3日、7歳で崇賢門院の猶子となり、同時に喝食となって北山第にある崇賢門院の寝殿に住み、その領地の相続者に定められた〔『迎陽記』応永8年8月4日条、『吉田家日次記』応永9年3月14日条。〕。喝食御所と呼ばれる。義満存命中は日野康子、高橋殿池尻殿らと盛んに各地に行楽に連れられている〔 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.234〕。
崇賢門院は、義満の生母紀良子と姉妹であり、義満とは親しい間柄であった。大慈院は崇賢門院の開基した寺院であり、足利将軍家の女子が最も多く入室した。聖久はその初めである。得度した際、法名を聖久とし、空谷明応の弟子となった〔。応永35年(1428年)4月に崇賢門院が93歳で死去すると、約定通りその領地を継ぎ、大慈院の住持となった〔。大慈院の別称の南御所は、もともと義満の正室・日野康子の北山第内の住居であり、日野康子の死後、崇賢門院と通して、聖久に譲られたと考えられる〔 湯之上隆「遠江国浅羽荘と比丘尼御所」『日本中世の政治権力と仏教』思文閣出版、p.153〕。
正長2年(1429年)6月19日、6代将軍足利義教は同年3月に日野宗子との間に生まれた女子を、聖久のいる大慈院に入室させた。聖久の後継者とするつもりだったと考えられるが、この女子は永享3年(1431年)7月に3歳で夭折した。また、聖久の妹である聖紹が時期は不明であるが、大慈院に入室している〔 湯之上隆「足利氏の女性たちと比丘尼御所」『日本中世の政治権力と仏教』思文閣出版、p.106-107〕。
永享5年(1433年)閏7月13日、赤痢のため死去した〔『看聞日記』永享5年閏7月13日条。〕。享年39〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大慈院聖久」の詳細全文を読む




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