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大戸平 廣吉(おおとひら ひろきち、1866年9月13日(慶応2年8月5日) - 1916年3月13日)は、陸奥国宮城郡(現:宮城県仙台市宮城野区)出身の元大相撲力士。本名は太田 廣吉(おおた ひろきち)。 == 来歴 == 1866年9月13日(慶応2年8月5日)に陸奥国宮城郡(現:宮城県仙台市宮城野区)で農家を営む家に二男として生まれた。幼少時代から筋肉が逞しい体格で、土地相撲では大関を務めていた。上京後に知人の世話で尾車部屋へ入門、1885年5月場所に序ノ口で初土俵を踏んだ。右差しから鋭い出足を最大限に生かして寄る取り口で順調に出世し、1890年5月場所で新十両昇進、1891年5月場所で新入幕を果たした。 入幕から2場所目となった1892年1月場所で7勝1敗2休の優勝相当成績を残すと、同年6月場所では関脇に昇進して6勝、1893年1月場所では早くも大関へ昇進した。この場所も8勝1預1休で無敗での優勝相当成績を挙げ、破竹の連勝街道を進んでいた小錦八十吉 (初代)よりも先に横綱へ昇進するものと思われていたが、当時の角界でも一、二を争うほどの酒豪だったことで健康を害し、当然ながら相撲にも影響を及ぼしたことで昇進は果たせず、それどころか休場が増えてきたことで大関から陥落した。 1896年1月には高砂浦五郎 (初代)の横暴による「中村楼事件」が発生したことで西方力士の代表として、1月場所開催のボイコットと、「不正なる取締(高砂)の配下にあるを潔しとせず」とする檄文を東京大角力協会に送り、改革を迫ったことで高砂の排斥に成功した。大関陥落から2年が経過した1899年1月場所を最後に現役を引退し、尾車の死去によって3代・尾車を襲名した。 以前から両国の回向院で相撲が開催されていたが、屋外であることから興行が晴天日しか行えなかったことで、雨天時でも行える常設の建物が必要となり、雷と共に建設委員に名を連ね、1909年に建物が完成した。当初はこの建物を「大角力常設館」と呼んでいたが、尾車は初の常設会場を「国技館」と名付け、ここに旧・両国国技館が誕生した。それと同時に相撲が「国技」と呼ばれるようになった。 協会内では勝負検査役を務めるなど、重鎮として雷を補佐した。弟子の育成手腕にも優れており、大砲万右エ門を第18代横綱に、大坂相撲を脱退して上京したばかりの荒岩亀之助を大関にそれぞれ育て上げ、明治時代後期の主役力士を輩出した。マスメディアにも理解を示し、新聞記者や相撲画家を部屋に招いては弟子に取り口や技を実演させて、それをスケッチさせるなど媒体を通しての相撲普及にも努めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大戸平廣吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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