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大木 兼能(おおき かねよし、天文21年(1552年) - 慶長16年6月25日(1611年8月3日)〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus 〕)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。 先祖は伊勢国大木の城主。大木道玄の子。通称、弥介、織部、土佐守。 伊勢長島一向一揆に一向門徒側として参加、天正2年(1574年)の第3次長島侵攻においては織田信広(織田信長の庶兄)を討ち取る戦功を挙げるが敗北した。この時、織田信長は鉄砲や火攻めによる武力制圧を行ったが、その最中で生き延びたあと信長側に降伏したものと思われる。 以後、信長家臣・佐々成政の家老となって三千石を領したが、成政失脚後は加藤清正に属して同じく三千石を与えられた。文禄・慶長の役等で数々の軍功を挙げ、関ヶ原の戦いにおいては梶原景俊と共に一計を案じ、大坂屋敷から清浄院(加藤清正夫人)を加藤家の本領である肥後へと脱出させて功があった。また理財の能力にもたけていて蔵元奉行を担当し、加藤家の大阪屋敷留守居兼倉米販売も任されていた。その後も清正公の信頼厚い側近として財政管理を任され慶長16年(1611年)6月24日に清正が没した際には今までの恩顧に感じて、翌日に自らも清正の後を追い殉死を遂げたと伝わる。法名は「尭心院殿道了日解居士」。娘は佐々成政の実姉の子孫である佐々直尚に嫁ぎ、佐々宗淳らを産んでいる。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大木兼能」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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