|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 村 : [むら] 【名詞】 1. village ・ 由 : [よし] 【名詞】 1. reason 2. significance 3. cause ・ 己 : [き, つちのと] 【名詞】 1. 6th in rank 2. sixth sign of the Chinese calendar
大村 由己(おおむら ゆうこ、天文7年(1536年)? - 慶長元年5月7日(1596年6月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての学者・著述家。播磨国三木の出身。号は藻虫斎梅庵。初め僧籍にあったが、還俗して豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。秀吉の伝記である『天正記』の著者として知られる。 == 生涯 == 青柳山長楽寺(三木大村金剛寺の塔頭)の僧、頼音房が大村由己の前身である。若年の頃、京の相国寺において仁如集尭より漢学を学び、諸家の門を叩いて歌道を修め、その深い学識で世に知られた。羽柴秀吉の三木城攻めで大村一帯が秀吉の勢力圏となっていた時に、秀吉の祐筆となったといわれている。天正10年(1582年)の秀吉の中国大返しの際、姫路城における軍議にも参加していることから、この時期には既に秀吉の側近としての地位を確立していたものと思われる。同年、大坂・天満宮の別当となる。 天下統一に邁進する秀吉に近侍して、彼の軍記である『天正記』などを記述した。いずれも秀吉の偉大さを殊更強調して書かれたものであり、由己は豊臣政権の正統性を訴えるスポークスマンとしての役割を担っていたのではないかと推察されている〔山室恭子著『黄金太閤―夢を演じた天下びと』、中央公論社、1992年11月、ISBN 978-4121011053〕。 文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋まで従軍した。当時の秀吉は能に傾倒すること甚だしく、既存の作品を演じるだけでは飽き足らず、由己に自身の偉業を後世に伝える新作能の作成を命じたといわれている。『吉野花見』『高野参詣』『明智討』『柴田討』『北条討』はいずれも秀吉を主役にとった由己作の新作能である。 特に『明智討』は文禄3年(1594年)3月15日に大坂城で、4月12日に禁中で、それぞれ秀吉本人の手によって披露されていることから、秀吉のお気に入りであったことが伺える〔。 上記の軍記物や新作能以外に、謡曲・和歌・連歌・俳諧・狂歌などに多彩な才能を発揮した。藤原惺窩や山科言継・里村紹巴など、同時代の知識人たちとの交友も知られている。また、『梅庵古筆伝』を著すなど、古筆への造詣も深かった。 慶長元年(1596年)に摂津国天満天神で死去した。享年60。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大村由己」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|