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大村 純熈(おおむら すみひろ)は、肥前大村藩の第12代(最後)の藩主。 == 生涯 == 文政13年(1830年)11月21日、第10代藩主・大村純昌の十男として玖島城で生まれる。弘化3年(1846年)に兄で第11代藩主である純顕の養子となり、12月18日に兄が病気で隠居すると、弘化4年(1847年)2月21日に家督を継いだ。 蘭学に通じ、文武や学問を奨励した。文久2年(1862年)には平戸藩と同盟を結んでいる。幕末期は藩内で佐幕派と尊王派が対立し、文久3年(1863年)に純熈が長崎総奉行に任じられると佐幕派が台頭した。しかし尊王派はこれに対して改革派同盟を結成し、元治元年(1864年)、純熈の長崎総奉行辞任により逆に尊王派が台頭した。 慶応3年(1867年)、改革派同盟の盟主である針尾九左衛門・松林飯山らが暗殺されると、逆にこの「小路騒動」と呼ばれた闘争を契機に純熈は佐幕派を処罰し、藩論が一気に尊王倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。 以後、薩摩藩・長州藩などと共に倒幕の中枢藩の一つとして活躍し、戊辰戦争では東北地方にまで出兵した。この功績により、明治2年(1869年)6月には賞典禄3万石を与えられ、版籍奉還により大村藩知事に任じられた。 明治4年(1871年)7月、廃藩置県で藩知事を辞職する。明治15年(1882年)1月、従三位に昇叙されたが、1月13日に死去した。享年53。明治36年(1903年)に従二位を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大村純熈」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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