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大東亜戦争(だいとうあせんそう、、)は、大日本帝国とイギリス・アメリカ合衆国・オランダ・中華民国などの連合国との間に発生した戦争に対する呼称で、1941年(昭和16年)12月12日に東條内閣が支那事変(日中戦争)も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定した〔。 敗戦後には、GHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。GHQの指定は現在では失効しているが、現在も日本政府はこの戦争を指して「太平洋戦争」と呼称する。歴史学、歴史認識問題などでこの戦争の呼称については議論が多数なされている。 == 呼称成立の経緯== === 閣議決定 === ;開戦直後 1941年(昭和16年)12月8日、日本は開戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)によってイギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告し、最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を実施、日本とイギリス、アメリカとの間に戦争が発生した。 発生以前の検討の時期から発生後まもなくは、「対英米蘭戦争」「対英米蘭蒋戦争」など交戦相手の名を用いた戦争名が用いられていた。対オランダに関しては、1941年(昭和16年)12月1日の御前会議で開戦を決定したものの、同年12月8日の「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」では宣戦布告の対象から除かれており、1942年(昭和17年)1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告まで公式には「対英米蘭戦争」とは呼んでいない。日本の政府および軍部ではこの戦争を正式にどう呼称するかについて検討が開始された。 ;大本営政府連絡会議 12月10日の大本営政府連絡会議は「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期ニ関スル件」を決定、「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされた。会議では海軍から「太平洋戦争」「対米英戦争」、さらに「興亜戦争」などの案が出された。しかしこれらの案は「支那事変(日中戦争)」を含めた場合や、ソビエト連邦との交戦の可能性を考えると適当ではないと反対された〔種村佐孝著『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社、1952年)〕。陸軍案のひとつであった「大東亜戦争」が採択された。 ;閣議決定 12月12日には東條内閣の閣議において、「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」が閣議決定された〔「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」 (昭和16年12月12日 閣議決定)、国立国会図書館〕。この閣議決定の第1項で「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記し、支那事変(日中戦争)と「対米英戦争」を合わせた戦争呼称として「大東亜戦争」が公式に決定した〔。また「平時、戰時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス」ともされた。 ;内閣情報局 同日内閣情報局は「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味に非ず」と発表され、戦争目的はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した。しかし、日本の戦争目的については、「自存自衛」とするもの、また「自存自衛」「大東亜新秩序形成」の二本立て、また「大東亜新秩序形成」のみが戦争目的とするものの間で当時見解が分かれていた。当時大本営参謀であった原四郎は情報局の「戦争目的」発表について「情報局は何を血迷ったか」との感想を持ったとのべている。 12月15日、次官会議で英国中心の語辞である「極東」を日本人が使うことは不名誉至極として、公文書で使用しないよう申し合わせを行った。 情報局の発表は1943年(昭和18年)11月の大東亜会議で「再確認」がなされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大東亜戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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