|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 東 : [ひがし] 【名詞】 1. east ・ 急 : [きゅう] 1. (adj-na,n) (1) urgent 2. sudden 3. (2) steep
大東急(だいとうきゅう)とは、戦時統制下(陸上交通事業調整法による)の東京急行電鉄を指す言葉〔50年史、pp.257-259。〕。五島慶太がその総帥〔。かつては英語略称として、T.K.K () を使用していた時代もあった。 == 概要 == 1942年(昭和17年)、東京横浜電鉄〔1910年に武蔵電気鉄道として設立された旧社ではなく、1922年に目黒蒲田電鉄として設立された「新社」の方である。〕は陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、同じ五島慶太が経営していた小田急電鉄および京浜電気鉄道を合併〔50年史、pp.261-268。〕。さらに、1944年(昭和19年)には京王電気軌道を合併〔50年史、pp.269-274。〕。また1945年(昭和20年)には子会社で経営基盤が脆弱であった相模鉄道の経営を受託〔50年史、pp.289-290。〕。その営業範囲は東横の元々のテリトリーであった東京市南西部及び川崎・横浜に加え、八王子や町田など東京多摩地域の中央線より南側や、小田原・横須賀など神奈川県の大部分に及ぶものとなった〔。大東急時代の鉄道路線は、現在の東京急行電鉄のものに加え、京王電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄・相模鉄道に該当する〔。 さらには、以下の企業をその傘下に収めた。 *東京都南西部と多摩南部・神奈川県全域・静岡県中部および群馬県草津・長野県軽井沢地区の私鉄 *江ノ島電気鉄道〔50年史、pp.275-284。〕、箱根登山鉄道〔、静岡鉄道〔、大山鋼索鉄道〔、草軽電気鉄道(現・草軽交通)〔50年史、p.513。〕 *バス路線 *関東乗合自動車(現関東バス)〔50年史、pp.276-279。〕、東都乗合自動車(現・国際興業バス)〔、東海道乗合自動車・藤沢自動車・伊勢原自動車〔(統合し神奈川中央乗合自動車、現・神奈川中央交通) *上記の私鉄バス事業及び子会社、タクシー会社 *日本交通〔、神奈川都市交通 *陸運会社 *品川運送・城南運送・東横運送・東京砂利運送・厚木通運・相鉄運輸〔50年史、pp.279-280。〕(以上、現・SBSロジコム) *横浜西部運送・小田原運送・平塚運送・相模運送・横須賀運送〔(以上、現・SBSフレイトサービス) *横浜東部運送(現・東部ネットワーク)、王子運送、城北運送〔 太平洋戦争後、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)および過度経済力集中排除法が公布されたが、鉄道事業者である大東急は適用対象外となった〔50年史、pp.373-374。〕。しかし鶴川一郎(後の小田急バス社長)を筆頭に旧小田急電鉄従業員を中心とした分離独立を求める動きが旧小田急のみならず旧京王・旧京浜でも高まり、企業分割を巡り社内が混乱した〔50年史、pp.381-383。〕。さらに大東急の路線は私鉄の中でとりわけ空襲による被害が大きく、これをすべて復旧する資金を一企業が調達するのには限界があった。結局、公職追放を受けていた五島慶太は、会社を分けることで東急各線の復旧が早まると判断し、この意を受けた大川博(当時専務)の案により会社は再編成され、1948年(昭和23年)6月1日、京王・小田急・京急の3社が分離独立し、ほぼ1939年(昭和14年)当時の東京横浜電鉄の路線のみが東京急行電鉄の路線として残り、現在の形となった〔50年史、pp.393-395。〕。 それ以外の私鉄も統合前の形に基本的には復することになったが、鉄道路線では元小田急電鉄の帝都線であった井の頭線が京王帝都電鉄(現・京王電鉄)の所属となったり〔50年史、pp.385-386。〕、バス路線でも旧東横乗合の路線のうち京王線以北が京王帝都電鉄に、東海道本線より海側が京浜急行電鉄の所属となったように、若干の変化はあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大東急」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|