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大江 音人(おおえ の おとんど /おとひと、弘仁2年(811年) - 元慶元年11月3日(877年12月15日))は、平安時代の貴族・学者。備中権介・大枝本主の嫡男。官位は従三位・参議。江相公と号する。 == 経歴 == 紀伝道について菅原清公に師事、天長10年(833年)文章生となる。『六国史』に記述はないが承和9年(842年)に発生した承和の変に連座して一時尾張国に配流されたことが『公卿補任』〔『公卿補任』貞観6年(864年)条の尻付〕に見られる。後に音人の子孫である大江匡衡が尾張守になった時に、先祖の音人がこの地に流されていたことを記していることから〔『朝野群載』三所収、大江匡衡「熱田宮祈請男挙周明春侍所望状」(長徳4年11月9日付)〕、配流の件は事実であったとみられている。承和11年(844年)赦されて帰洛後、承和12年(845年)対策に及第、少内記を経て、承和15年(848年)従五位下に叙爵され、大内記に昇進する。 嘉祥3年(850年)皇太子・惟仁親王の東宮学士に転任。文徳朝では東宮学士を務める傍ら、民部少輔・大内記・左少弁を兼ね、仁寿4年(854年)には従五位上に昇叙されている。 天安2年(858年)惟仁親王の即位(清和天皇)に伴い正五位下に叙せられ、まもなく右中弁に任ぜられる。清和朝では弁官を務めながら順調に昇進し、貞観2年(860年)従四位下、貞観5年(863年)右大弁と叙任。貞観6年(864年)には参議に任ぜられ公卿に列した。貞観8年(866年)正四位下。 同年10月に「大枝」から「大江」へと改姓しているが、「枝(分家)が大きいと、本体である木の幹(本家)が折れる(下克上)事にも繋がり不吉である」との理由であった。しかし「大枝」姓は桓武天皇より与えられたものであることから、全面的に変更するわけにもいかず、読み方はそのままで漢字だけ変えた。「大きな川(江)の様に末永く家が栄えるように」との意味があるという〔『日本三代実録』貞観8年10月15日条〕。 のちに、議政官として左大弁・勘解由長官・左兵衛督・検非違使別当などを兼ねた。またこの間の、貞観16年(874年)には従三位に昇叙されている。また、清和天皇に対して『史記』の進講も行っている。 元慶元年(877年)11月3日薨去。享年67。最終官位は参議従三位行左衛門督。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大江音人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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