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ルー 大柴(ルー おおしば、1954年1月14日 - )は、日本の俳優、お笑いタレント、茶人。本名、大柴 亨(おおしば とおる)。茶人名としては大柴宗徹〔ルー大柴公式ブログ2010年4月13日「頂きました!」 〕。 東京都新宿区富久町出身。浅井企画(2008年1月末まで)→株式会社Carino所属。山野美容芸術短期大学客員教授〔ルー先生からひとこと 山野美容芸術短期大学 〕。遠州流茶道師範。身長174cm、体重65kg。立教高等学校(現・立教新座高等学校)卒業。 == 略歴 == 第二次世界大戦後にシベリア抑留から引き揚げてきた父と日本で知り合った母との間に、東京で生まれた。父親は旧満州のハルビンで生まれ育ち、ロシア語・中国語・英語に堪能で、幼少のルーにハグや接吻をするような人物であったという。また、ルーの父方の祖父はロシアのウラジオストクで宝石商を営み、ロシア革命後に満州に移り、日本軍に飛行機を一機寄付してしまうほど富裕だったという。母親は再婚で、既に2女の親だった〔『文藝春秋』2007年10月)〕。母親の実家は印刷所を営んでおり、父親は婿養子に入っていた。 両親が不仲になったこともあり、高校卒業を機に家を出て独立。欧米各地で、自作のアクセサリーを露天商売販売しながら数年間放浪。これを機に英会話が特技となる。 帰国したとき、両親は離婚しており、一旦は実家が経営する印刷会社に就職するものの即退職。三橋達也の付き人を経て、1977年にテレビドラマ『俺たちの朝』で俳優としてデビューする(ただし、一話限りの出演でそれも端役扱い)。1979年、勝新太郎が主宰した『勝アカデミー』に第一期生として参加。この時、同期だった小堺一機と知り合う。この間、俳優業は鳴かず飛ばずで、司会業やモデル業をして雌伏の時を過ごす。また、この時期に関根勤とも知り合う。 折り込みチラシなど、モデル時代の事務所のパンフレットに掲載されていた“カジュアルなスタイルにウエストポーチをつけた格好”が『スーパーギャング・コサキン無理矢理100%』で話題となり、番組内で“ポシェット・ルー”として人気に火がつく。後に番組内でレギュラーとしてポエムコーナー『ルー大柴のパックインミュージック』が出来るまでになった。 1989年、関根の主宰する劇団『カンコンキンシアター』の旗揚げに参加し、その独特のキャラクターが脚光を浴びる。「アデランス」のCM「トゥギャザーしようぜ!!」のフレーズが有名。だがこの時ルーは35歳で完全に遅咲きだった。1992年、第29回ゴールデン・アロー賞芸能新人賞受賞。 また『浅草橋ヤング洋品店』の司会、『笑っていいとも!』曜日レギュラー、NHK大河ドラマ『花の乱』や、舞台『ハムレット』などに出演。またタレントとしてのキャラクターとは裏腹な演技力を発揮する俳優としての側面も持ち、近年では舞台俳優としても多くの作品に参加している。 1990年代前半の短期間のブレイク後、しばらくはカンコンキンシアターをはじめとする舞台演劇に活動の重点を置いていたせいもあり、テレビでの出演機会が少なくなり世間の露出度としては「控えめ」の状態が続いた。しかし2007年初頭頃からはクド過ぎる本人のブログ、その本人の言葉が「ルー語」と言われ、以前ならば最も嫌われていた女子高生層の間で話題となり、再びブレイクした〔ルー大柴ブログが人気 「トゥギャザーしようぜ!!」 J-CASTニュース 2006年12月25日 11時42分〕。みんなのうたにも起用された自身のCDがきっかけで、ワンガリ・マータイが提唱したMOTTAINAIプロジェクトに賛同し、テレビ出演時にはそのTシャツを着ていることが多い。 2010年4月、遠州流より準師範を許可された。 2012年10月、「ルー語」の英語と日本語が混ざった独特の口調でナビゲートしてくれるAndroid™端末用カメラアプリ「ルー大柴のCameraでLet's TOGETHER」 をリリース 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルー大柴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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