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大橋宋桂 : ミニ英和和英辞書
大橋宋桂[けい, かつら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [けい, かつら]
 (n) (abbr) knight (shogi)

大橋宋桂 ( リダイレクト:大橋宗桂 (初代) ) : ウィキペディア日本語版
大橋宗桂 (初代)[しょだいおおはしそうけい]
初代大橋宗桂(しょだいおおはしそうけい、1555年弘治元年) - 1634年4月6日寛永11年3月9日))は、将棋指し一世名人。子に、二世名人二代大橋宗古がいる。近年の研究によると、初代宗桂の生前にはまだ大橋姓はなかったともいわれている。
== 経歴 ==
宗桂は、京都下京の町人宗也の息子で、比較的裕福だったと推定される。幼名は龍政。初めは宗金を名乗り、次に宗慶を名乗って、次いで宗桂に変わる。その「宗桂」は織田信長から、桂馬の使い方が巧いとお褒めの言葉を貰い、以後「宗桂」と名乗るようになったという話もあるが、真偽のほどは確かではない〔沼春雄『大人のための一から始める将棋再入門』、105ページ。〕。
宗桂は、織田信長、豊臣秀吉徳川家康に仕え〔増川宏一『将棋Ⅱ』(法政大学出版会)等では「信長・秀吉に仕えたこと」は否定されている。〕、囲碁本因坊算砂と度々将棋を披露した(このころは将棋と囲碁がどちらもできる者がほとんどで、宗桂と算砂は囲碁でも互角らしい〔ただし、現在残されている二人の将棋平手戦の対戦は宗桂の7勝1敗である。勝浦修によると「宗桂は算砂より角1枚分強かった」という。勝浦修著『日本将棋大系1』(筑摩書房)より。ただし、古作登は算砂の将棋棋譜を再解析、コンピュータ将棋での局面評価結果が互角に近いことや、宗桂の息子の宗古の指導を行っていることから、算砂の将棋の棋力は相当に高かったとしている。本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する 〕。)。
徳川家康は碁、将棋〔家康が主に愛好したのは、現在の将棋(当時は小将棋)だったが、宗桂ら当時の将棋指しは中将棋も研究・対局した。〕を愛好し、碁将棋所を設け、最初は両方とも算砂が持っていたが、その後1612年(慶長17年)将棋所は独立したとされる〔この年は幕府より碁打ち衆、将棋衆の8名に俸禄が与えられ、宗桂は、算砂、利玄とともに50石10人扶持とされた。明治期に刊行された安藤如意『坐隠談叢』に「算砂が将棋所をゆずった」旨が記述されているが、この時期には「碁所」「将棋所」という言葉そのものがなく、信じがたいとの意見がある。(増川宏一『碁』『将棋Ⅱ』及び福井正明著『囲碁古名人全集』の巻末評伝(秋山賢司))〕。宗桂が初代将棋所となったとされるこの年を、日本将棋連盟は宗桂が一世(初代)名人になったとしている。
宗桂は僧体だったという〔ただし、増川宏一は『碁打・将棋指しの誕生』(平凡社ライブラリー)において、僧侶だった算砂と比較し、宗桂は町人の出だったとしている(同書121ページ)。〕。以後、嫡男は髪を剃り、僧体とするようにした。
初代宗桂の二百回忌に際し、十一代大橋宗桂が大橋家の系図を作成している。これによると、初代宗桂は宇多天皇を祖とする佐々木源氏(近江源氏佐々木氏)の血を引くものとされるが、多くの誤りが散見され、後代の創作であることを強く疑わせるものである〔増川宏一『将棋2』(法政大学出版部、ものと人間の文化史23-2、1985年)、237~250ページ。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大橋宗桂 (初代)」の詳細全文を読む




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