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大橋家(おおはしけ)は江戸時代の将棋家元(将棋三家)の一家。初代大橋宗桂が祖。将棋三家には分家である大橋分家があり、それとの区別で特に大橋本家とも呼ばれる。身分は御用達町人。 == 概要 == 二代宗古の時代に大橋分家・伊藤家の将棋三家による家元制度を確立したが、大橋家は宗古の孫の四代宗伝の早世で断絶の危機を迎え、伊藤家より養子(五代宗桂)を迎えようやく存続した〔大内延介・天狗太郎『名匠の棋跡』29頁〕。以後も五代宗桂の養子の六代宗銀が伊藤家の伊藤印達との57番勝負に負け越す〔大内延介『将棋の世界』88頁〕など不振が続き、再度伊藤家より養子を迎えることとなる(八代宗桂)。八代宗桂の子の九代宗桂が八世名人となるも、以降は目立った活躍もなかったが、十一代宗桂の門人から天野宗歩と小野五平が出ている。 明治時代になり、他の将棋三家と共に家元としては廃絶したが、子孫は現存している〔江戸期家元・大橋家子孫の井岡さん、棋譜、家系図など500点 〕。 初代宗桂の墓所は京都の本法寺教行院にあるが、二代宗古の墓石は行方不明となっている。三代宗桂以降の歴代当主の墓所は伊勢原市の冨士山上行寺。1928年に東京都より史蹟指定を受けている〔茶屋軒三「将棋名人の寺蹟を散歩しよう」(「江戸の名人」番外編)(『将棋世界』2012年3月号145頁)〕。 九代大橋宗桂らが残した「大橋家文書」が発見され、江戸時代の将棋指しの実態を知る上で貴重な資料となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大橋家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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