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大橋 鎭子(おおはし しずこ、1920年〈大正9年〉3月10日 - 2013年3月23日)は、日本の編集者、エッセイスト。暮しの手帖社社主・元社長で同社の雑誌『暮しの手帖』を創刊した。妹の大橋芳子も同社創業メンバーの一人で、エッセイスト。 == 経歴 == 日本製麻勤務の父と、小樽育ちで女子美術学校出身の母のもとに、東京・麹町の榊病院で生まれる。父親の転勤のため、1才で北海道に移住。だが、父親が肺結核になったため、東京に戻り、小学5年生の時に父が死去。父が亡くなるまでの5年間療養所を求めて、伊東、鎌倉、大森などを転々とし、家族で看病に明け暮れる経験をした〔VITALITEインタビュー すてきな暮しをあなたに 暮しの手帖社社長大橋鎭子 、東機貿『VITALITE』Vol.13、SEPTEMBER 1994。〕。大井町に落ち着き、父が1930年(昭和5年)に死去すると、11歳でその喪主を務めた。 東京府立第六高等女学校(現東京都立三田高等学校)を1937年に卒業。後輩の石井好子とはその後も交流が続く〔石井好子エッセイ「パリの空の下オムレツのにおいは流れる」『一冊の本』(扇谷正造、PHP研究所, 1976)収録〕。日本興業銀行に入行し、調査課に勤務する。3年で退行し、日本女子大学に入学するが1年で肺結核となり、学業を断念。 大学を中退して静養ののち、創刊されたばかりの日本読書新聞に入社。編集部員大幅変更時、戦争末期の休刊時、戦後の復刊時と、常に編集部に所属した。 戦後、日本読書新聞でカットの仕事をしていた花森安治と知り合う。1946年、花森、鎭子・晴子・芳子の三姉妹と横山啓一で衣装研究所(現・暮しの手帖社)を銀座で設立して社長となり、雑誌『スタイルブック』を創刊。1948年には花森編集長の元で『美しい暮しの手帖』(後の『暮しの手帖』)の創刊に参加。1951年社名を暮しの手帖社と変える。 1969年から長年にわたってエッセイ『すてきなあなたに』を同誌に連載。同エッセイにより1994年、「戦後の一般の人の暮しを豊かにした」として〔第10回東京都文化賞を受賞した。1978年の花森の死去を受けて編集長となる。2004年に横山泰子(妹の息子の妻)に社長を譲り社主となる。 2013年3月23日午前8時37分、肺炎のため東京都品川区の自宅で死去〔大橋鎮子さんが死去 「暮しの手帖」社主 47news 2013年4月1日〕。93歳没。 2016年度(平成28年度)前期放送予定のNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』は、大橋をヒロインのモデルとして『暮しの手帖』の創業の軌跡を描くフィクション作品となる〔来春朝ドラは「暮しの手帖」創業者の軌跡モチーフ (2015年6月26日)、日刊スポーツ、2015年6月26日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大橋鎭子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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