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大沢 文夫(おおさわ ふみお、大澤 文夫、Oosawa, Fumio、1922年12月10日 - )は、日本の生物物理学者。戦後、学問研究では異端とも思える状況の中で、物理学者の立場から生物の研究を開始した。海外の研究に依存しないで日本で独自の研究を展開し、世界的な研究をした。直接の弟子が数百人と多く、弟子以外にも多くの研究者に多大な影響を与えた。日本の生物物理学の創設・開拓・牽引者。名古屋大学名誉教授/大阪大学名誉教授。小谷正雄の直弟子。寺田寅彦の孫弟子。理学博士。作家富士正晴の義弟。 == 来歴・人物 == 大阪府池田に生まれる。小学校時代は、勉強はできるが、嫌いだった。当時、理科好きの子供は、ラジオ作りか昆虫採集に夢中になったが、両方とも全く興味がなく、理科嫌いだった。豊中中学校(現・大阪府立豊中高等学校)から、15歳の時、名古屋に引っ越し、熱田中学校(現・愛知県立熱田高等学校)に転校。翌年、第八高等学校(名古屋大学の前身)に入学する。高校1年の時、アンリ・ポアンカレの『科学の価値』(岩波文庫)を読み感銘を受ける。 東京帝国大学の理学部物理学科の入学試験の口頭試問で物理が好きな理由を尋ねられ、正直に「好きな理由は、全くありません」と答える。1942年の 東京帝国大学入学と同時に偶然見つけた下宿「理科の家」に入る。下宿の先輩からすすめられたウィラード・ギブズの『統計力学』を大学1年生の時に読んだのが運命の分かれ道で、統計力学に傾倒する(全文英語を全部ノートに写し読む)。小谷正雄教授のゼミを取る。戦争による修業年限短縮措置に伴い、2年半で大学を卒業した。 1944年 東京帝国大学理学部物理学科卒業後、名古屋帝国大学理学部の宮部直巳研究室(地球物理学者)の助手として、コロイドや合成高分子の研究をする。1946年、坂田昌一の主導で、名古屋大学の物理学教室改革が始まり、講座制が廃止され「誰でも独立した研究室を持てる」研究室制が始まる。1950年、上司・宮部直巳が東京の国土地理院に移籍したのに伴い、英文論文を1つも発表していない、博士号も取得していない28歳の助教授で、独立した研究室の責任者となる。合成高分子の収縮の研究から、生体高分子の収縮・筋収縮の研究に興味をもつ。1954年、日本の物理学教室で初めて生体材料(ウサギの筋肉)を用いた研究、つまり、筋収縮を担うアクチンの研究を開始する。 1961年、F-アクチンがらせん状重合体であることを理論的に導き出し、1963年、ハンソン(Jean Hanson)が電子顕微鏡で2重らせんであることを確認した。アクチンの重合・脱重合の熱力学的研究をし、G-アクチンとF-アクチンは共存し平衡状態にあること、重合は核形成過程と伸長過程の2段階からなる理論提唱と実験的証明をする。 アクチンが生物運動の基本的要素と考え、1966年、研究室の助手・秦野節司(名古屋大学名誉教授)と共に真正粘菌からアクチンを単離し、動物の筋肉以外から世界で初めてアクチンの単離に成功した。細胞分裂(実体はアクチン)、細菌の運動(実体はフラジェリン)、繊毛虫や精子の繊毛・鞭毛運動(実体は微小管)も研究し、生物運動の分子機構の基本原理を探った。 助手の太和田勝久(九州大学名誉教授)と共にゾウリムシの遊泳行動も研究した。 研究人材の育成に定評があり、朝倉昌、今井宣久、大井龍夫、秦野節司、能村堆子、葛西道生、藤目智、郷通子、御橋廣眞、太和田勝久、宝谷紘一、石渡信一、柳田敏雄、白楽ロックビルなど、多数の生物物理学者及び関係者を育成している。この功績で、2009年、ネイチャーメンター賞を受賞した。人材育成の特徴は放任であり、「大沢牧場」と呼ばれた。当時、日本の筋収縮研究には御三家がいて、その研究スタイルから「殿村工場、大沢牧場、江橋精肉店」と呼ばれていた。殿村雄治は大阪大学でミオシン、江橋節郎は東京大学でトロポニンの研究では世界的に著名だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大沢文夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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