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大田原 晴清(おおたわら はるきよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。那須七騎大田原氏の当主。下野大田原藩初代藩主。 == 生涯 == === 大田原氏の独立 === 天正13年(1585年)に那須資晴と宇都宮国綱との戦いである薄葉ヶ原の戦いで父縄清や弟増清と共に参じたのが初陣。 天正18年(1590年)に大田原氏の家督を継ぐ。同年の小田原征伐に参じる為に駿河国沼津で豊臣秀吉に謁見した際には、弟増清が既に豊臣秀吉と謁見を済ませていた事もあって主の那須資晴が所領を没収され、他の那須七騎の諸氏も減封処分を受ける家が出る中で大田原氏は7,100石の所領を安堵された。この時に秀吉より備前国勝光・宗光両作の太刀を賜った事から備前守を称した。 小田原落城後は降服した成田氏長の忍城接収の任を浅野長政に属して務めた。戦後、晴清は遅参の罪を問われて所領を没収された那須氏の再興を願い出る為、資晴の息子・資景(藤王丸)を伴い、奥州仕置の中途で大田原城に着陣した秀吉に陳謝し、その甲斐有ってか那須資景は新たに秀吉から5,000石を与えられ、那須氏は小さいながらも領主として復活する事が出来た。 文禄元年(1592年)の文禄の役の際には名護屋城まで出陣したが渡航はしなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大田原晴清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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