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大田黒元雄 : ミニ英和和英辞書
大田黒元雄[おおたぐろ もとお]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [くろ]
 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark 
: [げん, もと, がん]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 4. (2) former 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

大田黒元雄 : ウィキペディア日本語版
大田黒元雄[おおたぐろ もとお]

大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。
== 人物・来歴 ==

=== 裕福な環境 ===
1893年(明治26年)1月11日、東京府(現在の東京都)に生まれる。
大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。父・重五郎は、江戸時代には徳川幕府の御家人で、小牧(こまき)が本姓であった。元熊本藩の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らく(1925年没)と結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなった〔大田黒重五郎・口述『思出を語る』(大田黒翁逸話刊行会、1936年)のp.130等の記述を参照。〕。
元雄は長男で一人っ子、幼時について、父・重五郎は、
「元雄は。幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。私は元雄をつかまえて、「馬鹿」だなどと言って子供をいぢめたことを知らない。これも妻が良い女であったから、私が頭を擲(なぐ)らずに済むやうな子供をつくりあげて呉(く)れたのかも知れない。現在でも一時(ひとこと)だって争ひの種子(たね)もない。もう一つ幸(さいはひ)なことは、元雄夫婦の間にも争ひがないことである」
と話している〔。
元雄は、父重五郎の築き上げた裕福な環境で生涯を過ごし、黎明期の写真史に『写真芸術』同人として、福原有信福原路草石田喜一郎らと自由で重要な活動を遺し、また生涯にわたって自由な立場から音楽のみならず様々なジャンルで執筆を続けた。
若い頃の渡欧で、実際に作曲家の演奏を聴いた体験も、希有なものであったし、楽譜や資料、欧州の演奏会の情報や芸術の動向に関する最新の情報を日本に持ち込むことができたのも、この財力によるところが大きい。ガブリエル・フォーレの演奏を彼は聴いている。島崎藤村が聴いたクロード・ドビュッシーの演奏を、大田黒元雄は聴いていない。
しかし、それのみならず、音楽に関する専門的な教育を十分に受けていない一青年が、大正時代に、既に活躍ができたというのは、元雄のセンスと才幹によるものであろう。また、彼は自分が得た情報を惜しげもなく提供し、多くの音楽愛好家に親しまれた啓蒙家としての側面もあった。
大森山王(現在の大田区山王)と杉並区東荻町(現在の同区荻窪)の2か所の東京の邸宅のほかに、静岡県沼津市神奈川県小田原市に別邸があった。病弱な母の転地療養先で育てられた元雄は、旧制・神奈川県立第二中学校(現神奈川県立小田原高等学校)卒業後、旧制高等学校には進まず、東京音楽学校の教師ペッツォルトにピアノを師事した。1912年(明治45年)に渡英し、ロンドン大学で約2年間にわたって経済学を修める傍ら、音楽会や劇場に通い詰めて本場の芸術に親しんだ。1914年(大正3年)7月に一時帰国したが、第一次世界大戦の勃発で再び渡英できなくなったため日本にとどまる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大田黒元雄」の詳細全文を読む




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